彼女のこと
1
仕事帰り、駅前のクリーニング店に寄った。冬の間、制服のように着ていたコートをカウンターに広げてポケットの中を確かめていると、配達から帰って来た店主が、とうとう出してくれるのかいと笑った。毎日、店の前を私が通るたび、いつになったら持って来るのだろうと思っていたと言う。
「失礼しちゃう。おじさんたら、いっつも外ばっかり見てたのね」「そこでアイロンかけてたら、いやでも駅の中が見えるんやが」
「本当…」
なにげなく、正面のガラス戸に目をやると、クリーム色ののぼり電車がホームに入って来た。くたびれた顔のサラリーマンやOLが乗降口から吐き出されて来る。
「あっ」
私は、その人の波に小さな叫び声をあげ息をのんだ。赤に近いえんじのワンピースを着た女が、改札口を抜けようとしている。真っ直ぐに伸ばした黒い髪が風に揺れるたび、左手で軽く押さえて宙を見ている。
「毬子…」
私の体は、全身あわだっていた。
県都から二十キロほどはずれたこの町で、うちが下宿屋をはじめたのは、私が十歳の頃だ。隣県の私立大学を誘致して来たというのに、当時の町は学生の受入れ体制が充分ではなく、下宿屋をすれば町から助成金がおりると噂がたった。女丈夫だった祖母が、それならばと自分の住んでいた離れをアパートに建て替え、母屋と廊下で繋げて賄いつきの下宿に仕立てたのがはじまりだ。
結局、助成金の話はガセねただったのだが、数年間は入居者に困ることもなく、結構繁盛もしたらしい。しかし、町が整備され、小綺麗な学生アパートが建ちならぶと、うちあたりにくる者はほとんどおらず、今年も新入生の入居がないまま春を迎えている。
十二年前、毬子がはじめて我が家にやってきた頃でも、うちの経営は決して楽ではなかったように思う。推薦入学の願書受け付けの頃から、母は大学の学生課に何度も足を運んで斡旋を依頼したり、学生食堂にポスターを張って入居者を募ったりしていた。けれど、四月になっても、二階の西の端の部屋が売れず、いつまでも日除け用の白いカーテンが閉まったままになっていた。
連休過ぎの五月も半ばの日曜。
このあたりの学生下宿の世話を引き受けている大森不動産から、隣の市にある玉川女学院の学生なんだが、どうだろうと電話があった。
「玉女ですか…」
うちは、営業当初から男子専門の下宿屋としてやってきた。少々下品でがさつであっても、気を張らない商売の方が長く続く。女の子が入れば設備の改造も必要だし、面倒なことも多い。電話をうけた私は、きっと母も断るだろうと思いつつ受話器を彼女に渡した。 ところが意外にも、「じゃあ、とりあえず一度見てもらってからに」と、母は愛想良く返事し、受話器を置くなり、なかば命令的に、「春子、掃除するで。玄関の花、買うてきて」
ひと月二万円そこそこの家賃でも、あると無いとではおお違いである。父が卒中で倒れ、生活のほとんどを下宿に頼っていた我が家としては、とにかく部屋を埋めなくてはならないのかもしれない。でも私は、どんなに困っても玉川女学院の気取った女子大生など、うちの下宿には住まわせたくはなかった。
ムッとした私は、テレビに目をやったまま、面倒臭そうに「どこの玄関の花」と、あくびをした。
「アパートのに決ってるやないの。玉女の子やって。今から見にくるんやって」
「あら、貸すの」
もう一度いたぶるように尋ねると、「お客さんあっての下宿屋ですけんね」と言い返し、母はアパートにつながる廊下に消えた。
手伝ってやろうという気持ちがなかったわけではない。私だって、下宿屋の娘として育ったのだし、住人がお客だと言う心得はあった。だが、母がさっさと行ってしまうときっかけを失い、浮かせた腰をまた付けてしまった。
ほどなく、聞き覚えのある大森不動産の関西訛の声が聞え、母屋の玄関があいた。
「母は、アパートの方です」
茶の間から顔だけ突き出して言うと、大森不動産は、もう子供のように玄関の上がり口に腰をかけて靴を脱ぎ出している。ここで靴を脱がなくても、アパートの玄関へ回れば良いのにと思いつつ、母のように「困ります」と強くも言えないまま、私は彼が短い足をぷらぷらさせて靴を投げ出すまで黙って見ていた。
「春ちゃん、こちら本多毬子さん。玉女の三年や。年も近いし、仲良くしてやってな」
「はあ…」
顔をあげると、私と一緒に彼が靴を脱ぐ姿を見ていた大柄な女が、首を傾げてゆっくり顎をひき「よろしくお願いします」と言った。「あっ、どうも、こんにちは」
こっちも首をすくめ、あわてて挨拶をしたものの、気が付けば、私は腹這いになって茶の間から首だけ出しただけのみっともない姿で、自分の粗忽ぶりを露呈してしまっただけだった。
彼女は、目のすぐ上で切り揃えた前髪を自分の長い睫で蹴り上げるように瞬きすると、くすりと笑ってから、その視線をゆっくり大森不動産に移し、「とても、いい所ですわね」と言った。その微笑み方といい、首の傾斜の具合といい、なにもかもが計算されたように美しく、私は自分がますます劣勢になっていくのを感じた。
「春ちゃん、大学はもう卒業したんかいな」
大森不動産が、私と毬子の仲を取り持つように言い、「はあ、この春」と、私は曖昧に答えた。
「玉川女学院やったら、近かったのになあ。こっからやと、どのくらいや」
私は、ちらりと毬子を見てから、
「さあ、電車で二十分くらいかしら。玉女は駅からすぐやから」
「そうか、そんなもんか。そら、ええわ。玉女には、春ちゃんの希望した学部がないと、お母さんが言うてたな。残念やったな」
「はい。はあ、まあ」
私と大森不動産のやり取りを聞いていた毬子が、左手で右の頬にかかった髪の毛をゆっくり耳にかけた。つい気を取られ、私と大森不動産がそちらにむくと、すっと顔の向きを変え「あら、どうなさったの」という風に上目づかいに宙を見る。一つ一つの仕草に、ねっとりとまわりの空気が絡み付くようだ。
「ほんじゃ、本多さん、こっちな」
大森不動産が、子供のようにちょこちょこと歩き、その後ろに、悠然と毬子が続いて二人は廊下に消えた。
毬子の残り香が漂う玄関で、私は全身に嫌悪感を感じ、あんな奴、絶対好きになれないと身震いした。どうしてだと理由を聞かれると、あの趣味の悪い真っ赤なワンピースが嫌だったとか、暑苦しい体付きや化粧にうんざりしたとか、いろいろ言えるが、本当の理由は他にあった。
毬子は、私が玉川女学院になど行ける学生ではなかったことを、まちがいなく見抜いている。そして、そんな私を哀れんでいる。お気の毒にねえと私を見下したような気がする。直接、言葉で攻撃を受けた訳ではないけれど、私の自尊心はいたく傷付けられていた。
毬子が下宿に入るという事は、単に下宿生が一人増えたと言うだけの事ではなかった。
授業のない日、毬子は何かというと用を作って母の所にやってきては、世間話や自分の家の事を話していく。夕方近くまで母屋にいて、学生達が夕飯にやってくる頃、「では、失礼いたします」と、彼らの横を通り抜け自分の部屋に引っ込む。
それまでは小汚ない姿で母屋の食堂へ食事に来ていた学生たちが、妙に格好を気にするようになり、下着姿で廊下を歩くものも居なくなった。似たような年ごろの娘であっても、私では、そんな現象は起こりはしなかったのだから、女としては、毬子のほうが上等だったのかもしれない。でも、学生たちが、そんな風になってしまうことを、私は許せなかった。どうして、あとから来た毬子に、皆が生活を変えて合わせなくてはいけないだ。
引っ越してきて二週間ほどたった頃、毬子が明日から自分も母屋で皆と食事をいただきたいと申し出てきた。バイトで帰り時間の不規則な子などは、自炊をしている子もいたので、彼女も最初はその契約だったが、皆さんの楽しそうな様子を見ているとご一緒したくなりましたのと、学生たちの前で小首を傾げた。
ヒューと下品な口笛がなり、「毬ちゃんが、いてくれたら、おばちゃんのまずいご飯も十倍味がようなるで」と誰かが言った。
「ちょっと待って」
配膳を手伝っていた私は、毬子の前につかつかと歩いていくと、食事の契約は半年ごとだから急に言われても駄目ですと、きつい口調で断った。
「ええ、わかってますわ。でも、一人で食事をするのは寂しくて…。おばさまのお手伝いをしながら、皆さんとご一緒させていただけたら、どんなに楽しいかって…」
なにが何でも駄目をとうそうとしたのに、
「ここの食事なんて、毬ちゃんの口にあうかどうかわからないけど、皆と一緒に食べるかい」
母のこの一言で、毬子の希望は通ってしまった。
翌朝、母がちょっと困り顔で、今夜は早く帰ってくれないかと声をかけてきた。
「どうして」
「おかずだよ。女の子は、どんなものを食べるんだろうね」
「どんなものって、献立通り作ればいいじゃないの」
今までなら、なんだかんだ言っても男の子ばかりだから腹だけ満たせばよしだったが、女子大生が入るとなればそうはいかないと、母は困り顔を見せた。
「やっぱり洋食やろうか」
「知らんわよ。母さんがOKしたんでしょ。私、あんな子の面倒みとうないからね。母さんが留守のときも、男子の分しか作らんわよ」「あんな子ったって、あんたは毬ちゃんと喋ったこともないやないの」
「喋らんでも分かるわよ」
「ちゃんと挨拶はするし、珍しいお菓子があったからって持っては来るし。ほら、この間は、この電話カバーを作ってくれたんやで。ええお嬢さんやないか」
居間の隅の黒電話には、フリルのたくさんついた、妙ちきりんなドレスが着せられていた。
「へぇー、母さんは、あんな娘がええわけ。ここがあんなんの巣窟になるんなら、私は家を出るからね」
喧々と怒鳴る私を見て、母はうんざりしたようにため息をつく。「おまえに、毬ちゃんの半分でも素直な優しさがあったらね」
「母さんに、私の半分でも人を見る目があったら、あんな女に惑わされることもないでしょうに」
とにかく私は、彼女が絡むと訳もなく腹が立ち、まわりが彼女にみかたするたび、自分が疎外されていくようで焦っていた。
冷たく言い残して家を出たものの、あの下宿のおかげで大学にも行かせてもらったし、あそこの上がりが、この先も生活費のたしになるのである。会社帰り、私は駅の近くの本屋で女の子に好まれそうな惣菜の載った料理ブックを物色していた。
「あら、おねえさま」
甲高い声に振り向くと、毬子が、手芸の本や料理の本を抱えて立っていた。
「おねえさまも、お料理の本ですの」
おねえさまって、私の事…。
むずがゆい思いに返事もせず、また書架から本を取り出そうとすると、私が手にした本の隣の本を毬子がさっと抜き、私に差し出した。
「これが、見やすいんですのよ」
「そう…」
はじめて会った日と同様、彼女の方が、ずっと優勢だった。
毬子は得々と、自分の母がいかに手先が器用で料理好きであるかを話し、その母親に厳しく仕付けられた自分を謙遜しつつも誇らしげに語った。そして、自分の腕の中の『家庭のフランス料理』の表紙写真を指差して、これを作ったシェフに子供の頃からかわいがられていると、さらりと言った。
私に対して、特別な悪意があるとも思えなかった。言っていることも玉川女学院の気取った女子大生の言葉なら、そう突拍子もないことではない。でも、だんだん不愉快な気持ちは募り、一時たりとも、この女の話など聞きたくないと思ってしまった。
「じゃあ、まあ、そのシェフに宜しくと言っといて」
「ええ、申しておきますわ。おねえさまも、おばさまと神戸へ来られた時には、ぜひここのお店へ寄ってくださいね。芦屋の本多と言ってくださればわかりますから」
小首を傾げると、毬子は不敵な微笑みを残して雑踏の中に入っていった。キャッシャーでお金を払う彼女を遠くから眺めながら、私は、また自分がとても惨めな気分になっていることに気付いた。
一時が万事こんな調子で、毬子が我が家に来てからというもの、私の不愉快は募るばかりだった。しかし、どう考えたって私が勝手に相撲をとっているだけなのだ。相手は小高い位置から私を見て、「どうなさったの」と微笑んでいる。でも、きっと私の心の中にある、彼女に対する嫉妬や羨望のことは知っている。それを思うと、直接対決できない悲しさが、また私を襲う。
それは日がたつごとに、私だけではなく、うちの家族全体にも影響を及ぼしていった。
夏休みに入って、ほとんどの学生がアルバイトに行ったり帰省したりするのに、毬子だけは、いつまでたっても家に帰ろうとしなかった。母が心配して尋ねると、今は両親とも、アメリカに行っているので、夏の間ここでゆっくり勉強して、九月に入ったら父とヨーロッパに行くことになっていると話したらしかった。
「いいねえ。父親がしっかりしてると、娘も鷹揚に育って」
母は、やるすべもない気持ちを、自由のきかなくなった体で、ひがな一日ぼんやり庭を眺める父の背中に吐きかけた。父は、反論するでもなく、わずかに動く左手で煙草を取り出すと、何分もかけて火をつけて吸う。
毬子がくるまで、母は決してこんな事は言わなかった。お父さんが病気になっても、うちはおばあちゃんの残してくれた下宿があったから、こうして飢え死にせずに済んだ、ありがたいことだと、むしろ自分の境遇に肯定的だった。
しかし、日ごと聞かされる毬子の実家の生活や、毬子のなにげない話に、同世代の家族でありながら、どうして自分たちばかりがこんな惨めな生活を繰り返さなくてはならないのだと思い始めていたようだった。
「やめなさいよ。親のお金で外国行こうなんておもっちゃいないわよ」
母を叱り付けたものの、自分の学生時代と毬子の生活をつい比べてしまうのは、私も同じだった。
冬休み近く、「父がどうしてもと申しますので」と、毬子は玉川女学院の近くのマンションに引っ越すことになった。だから、彼女がうちの下宿に居たのは半年ちょっとということになる。
しかし、その数か月間、私も母も、そして父も、自分の中に巣くっていく形のない奇妙な敵と戦わざるを得なかった。
2
「春子、毬ちゃんのこと覚えてるかい」
それから六年ほどたった頃、隣の市ヘ買い物に行っていた母が興奮気味に喋りながら、帰ってきた。
「覚えとるわよ。いつも真っ赤っかの洋服着て、満艦飾に飾り立ててた本多毬子でしょ。母さん、お気に入りやったやないの」
「あんた、いつまでたっても、あの子のこと嫌うんやね」
デパートのブライダルコーナーで、見るともなくウエディングドレスを見ていた母は、例の甲高い声で「おばさまー」と呼びとめられた。振り向くと、試着室のカーテンから頭だけ出した毬子が、母を見ていたと言う。
「毬ちゃんな。神戸の商社マンと結婚するそうや。商社マンいうても、ただのサラリーマンちゃうで。そこの会社の社長令息。さすがのもんやな」
買ってきたカステラ饅頭を父の左手に持たせ、自分もほうばりながら、母はまるで酔ったように、毬子が結婚に至るまでの経緯を私や父に伝え始めた。
大学を卒業した毬子は、神戸に帰り、仕事にはつかぬまま花嫁修行をしていた。縁談は山のようにあったのだが、彼女は、小さい頃から知っている、その社長令息以外に結婚は考えてはいなかった。「初恋の人ですのよ。おばさま」
母に、そういって、毬子は真っ赤になったという。毬子自身は、もう少し両親と暮らしていたかったのだが、毬子の気持ちを知った相手の両親が、一日も早く毬子を嫁に欲しいと言い出し、急遽結婚式となった。
「結婚なんて、もっと大人になってからと思っておりましたの。でも、彼のお父様やお母様が、そのままの毬子さんで来てくれたらいいと言われて…と、半ば強引に日取りを決められてしまったんやってさ」
調子に乗って、母は毬子のしなを真似る。私と父は、その母の仕種に大笑いし、六年前、彼女が私たちの心に小波を起こした事などすっかり忘れていた。
「結婚式は六甲山の教会、披露宴はオリエンタルホテル。でな、招待客が三百人やて」
「そんなことまで喋ったの」
「私やあんたも呼びたかったけど、お父さんの取引先の人が多くて、さすがのオリエンタルホテルはんも、これ以上人を増やさんとってくれって言ったらしいで」
「そう」
聞くうちに馬鹿馬鹿しくなってきた。しがない下宿屋の娘である私が、とうてい相手にできる女ではなかったのだ。あんなに敵対心を燃やし、心を痛め、一人で苦しんだことが、何てとんまな話だったのだろうとおかしい。
母だってそうだ。毬子が下宿に居た頃には、惨めな思いを紛らすため、家族に当たり散らしたりもしたが、そんなことなどすっかり忘れて夢を見ている風だった。
しかし、もっと大人になってからなんて、よくも言ったわね。私より二つ下だけなんだから、もう二十六じゃないの。あれだけ、自分の容姿が気にかかる女だもの、美貌が崩れないうちに嫁に行きたいと思うなら、二十七歳あたりがタイムリミット。つまり、こちらからお願いしてもまとめたい縁談だったんじゃないの。
私の頭の中には、せせら笑いに似た意地悪な思いが次々浮かんだ。しかしまあ、どっちにしても、めでたいことだ。
「で、いつなの。日取りは」
「五月の第二日曜だか、第三日曜だか言うてたわ」
母が無責任に答え、私と母の話はそこで終わった。母は、そろそろ下宿生の食事の準備にかからなくてはいけなかったし、私も彼氏とのデートの時間が迫っていた。
「なあ、サトル。私が大金持ちのお嬢さんで、三百人の招待客を呼ぶ結婚式する言うたらどうする」
「さしずめ僕は逆玉やな」
「ううん、サトルは神戸の商社の社長令息」
「ほう、そりゃすごいですな」
私は彼氏に、毬子の事をおもしろおかしく話し、その日のデートの肴にした。サトルは、三流大学の経営学部を卒業した地方銀行の平銀行マンで、そう出世が望める立場でもない。私とは丁度いいくらいの男だ。
私たちの夢と言えば、私があの下宿を継いだら、あそこの土地を担保にマンションの建設資金をサトルの銀行から借り入れ、将来は二人で小さなマンションのオーナーになると言うような事くらいだ。そういう夢が、ちょっと頑張れば現実になりそうな自分達を、私たちは幸福だと思っていた。
幸福感を感じている時の人間は、それなりに心も平和で、視点も甘くなる。特にサトルとの充足した時間を送るようになってからの私は、いろんなことに鈍感になっていた。毬子の結婚のことも、別におかしな話だとも思わず聞き流してしまっていた。
「そやけど、変やな」
サトルが、なにか思い出したように言った。
「なにが」
「その毬子って人、なんでわざわざこっちに来てドレス買うんや。神戸なら、もっとええのが腐るほど売ってるやろうに」
「そら、そうやな」
「その子の親って言うのに、会ったことあるんか。なんか、その話、マユツバ臭いで」
サトルは、自分の前に運ばれてきた肉料理を切り捌きながら、女の人は空想がいつしか現実との狭間を越えることもありますからねと、笑いながら言う。
「まさか、そんなことで嘘つかんやろ」
でも、そう言われてみれば、毬子が下宿に居た間、彼女の両親が我が家に来たことは一度もない。引っ越してきたとき、白い鏡台と整理タンスを運んできたのも運送屋だったし、転出の時「父からです」と、高価な洋酒とお菓子を貰ったけれど、やはり両親は挨拶に来なかった。
うちは男子学生相手だから、そういう子も多かったので、その時は、たいして気にもしなかったが、あれだけ両親に手中の玉のように育てられているはずの毬子のところに、一度も家族が訪ねてこないと言うのもおかしな話だ。
「今、思い出したんやけど、変なことが、もう一つあったわ」
「なんや」
「私の高校の後輩でな、玉川女学院に行った子が居るんよ。いつやったか、その子と電車に乗り合わせて、うちの下宿にあんたのところの子が入ったって話したんよ」
「ふん」
「で、名前を言うたんやけど。知らんて言うんよね。玉女は、そう大きな学校でもないし、毬子は居るだけで目立つような女やもの、名前を知らなくても雰囲気を話せば分かると思ったんやけど」
サトルが、昔読んだ本に、自分はどこそこの令嬢と偽ってサギをしていく女の話があったなあと言い出し、私たちは、毬子が実は巧妙なサギ師だったのではないかと勝手に想像を膨らませた。そして、うちの家には騙しとられるものが無かったから、被害も無くて良かったなどと大笑いした。
「そういう奴は案外しぶといから、なんか貰えるまで、春子の家を付け狙うかもしれんで」
「狙われるうちが華かしら。でも、どこをどう見ても、狙い損やわ。うちなんて」
私は、自分の皿の肉をひと切れ口に放り込んで笑った。
その年、秋の飛び石連休を利用して、私はサトルと旅行に出掛けた。一週間ぶりに家に帰ると、思いがけず茶の間の私の座布団に毬子が座ってお茶を飲んでいた。
「なによ。あれ」
母を台所に引っ張ってきて聞きただすと、
「結婚式の直前に、相手の人が飛行機事故で亡くなったんやそうや。ほら、エジプトのほうで飛行機がおちたやろ、あれに乗ってたらしいんや」
婚約者の遺骨を引取りに行き、暫くはそのままヨーロッパを傷心旅行していたのだが、このままではいけないと日本に戻り、大好きなこの町で第二の人生を歩み出す決心をしたと、毬子は母に話したらしかった。
「で、まだ適当なマンションがみつからん言うから。それなら、うちの下宿は部屋が空いてるんやから、マンションが見付かるまでおりな言うたんよ…」
「いつから居てるの」
「あんたが、旅行に行った日から」
「一週間もたつのに、まだ部屋が見付からんの」
妙な胸騒ぎがした。
毬子は、朝になると私たちと一緒に食卓を囲み、まるでうちの娘のようにかいがいしく台所や家事を手伝い、昼頃から家探しに出掛ける。夕方が来ると、がっかりしたような顔をして戻ってきて、また夕飯の支度を手伝う。
残業やサトルとのデートで帰りが遅くなっても、母と毬子は必ずうちの茶の間で向かい合っていた。二人の間には、毬子の作ったお菓子だとか、彼女の両親が送ってきた珍しい食べ物とかが並んでいて、母は、とろけたような顔で毬子との語らいを楽しんでいた。
あまり良い気はしなかったが、私の気持ちの中には、もうサトルとの生活の方が大きく位置を占めていたし、若い頃のように特別腹を立てることもなかった。むしろ、母の気持ちが毬子に移っている間に、サトルとの結婚を決めてしまえば、この家を出て行けるとさえ考えていた。
結局、年末になっても毬子は我が家でぐずぐずしており、とうとう正月も帰省しないまま、うちでお節を囲むことになった。
「毬ちゃん。あんた、おうちの人が心配してるんやないの」
「ええ。でも、父も母も私の顔を見ると辛そうにしますの。だから…」
いつの間にか、私の部屋にも出入りするようになっていた毬子は、窓際に立って外をながめながらひっそり答えた。やたら艶のある声だ。
私は、彼女のその仕種に軽く吹き出した。もっと細身の楚々とした女なら、こんなことを言っても似合うのだろうが、いかんせん毬子は背も高く、しっかりした骨格の上に外人並みの肉付きである。以前ここに彼女が住み着いていたときには、私も若く、ただ彼女の華やかな雰囲気に圧倒されるばかりだったが、心落ち着けて観察すれば、彼女は深窓の令嬢と言うよりは、豊満な肉体を持つ魯鈍な感じの女だった。
サトルがふざけて毬子のことをサギ師じゃないかと言ったあと、しばらくは彼女を注意して見ていたが、何をやらせても年齢より幼く、こんな愚図な女がサギなどできるはずはないと思った。
「おねえさま。あの方とは、どうなさるの」
ちいさな溜め息をつき、毬子が振り返りざまに聞いた。
「あの方って、サトルのこと」
「ええ」
「どうって…」
「もう、ご婚約なさっているの」
そんな特別なことをしなくても、サトルと私の気持ちの中には、何年か後に『結婚』があると暗黙の了解があった。当然、それ用の付き合いは進んでおり、私の両親もサトルの家族も、私たちが二人だけで旅行に出掛けたりしても、表だって反対はしない。
「おねえさまにだから言うんですけど。私と彼、最後まで純愛でしたのよ」
「へっ」
突然の毬子の言葉に、どう答えていいのか分からず、私はとんきょうな声をあげた。
「彼、私には純潔のままでウエディングドレスを着てほしいって言っていましたの」
「・・・・」
彼女が私に何を言いたいのか、よく分からなかったが、彼女の酔ったような話ぶりには、途中で口をさし挟めないものがあり、私は呆気に取られたまま毬子のぺらぺら動く唇を見ていた。
「男の方は、みんなそうですわ。やはり女は乙女でなくてはいけないと、みんな思ってらっしゃる」
「・・・・」
「でも、そういう事を言えば、時代遅れだの、分からず屋だの言われるから、ものわかりの良さそうな事を言うんですわ」
「そうかしら…」
「私、彼のことは、もう諦めがつきましたの。けど、私が婚約をしていたことで、私のことを不純な女だとおもってらっしゃるみたいで…」
「誰が…」
「男の方です」
「どこの」
「だから、どの方も」
「いまどき、そんなことに拘る人が、いるんかしら。今のお互いを理解し会えばいいんじゃないの」
「それは、違いますわ」
大きな目をきっと吊り上げ私を見ると、毬子は、急にぼろぼろと涙を零し出した。
「誰も、私のことを分かってくださらない」
いったい何をどう言ってやれば、彼女の気持ちをなぐさめれるのか、私には分からない。婚約者とのことが自分の中で整理がついたのなら、それで良いではないか。あとは、自分がしっかりして、新しい人生を考えれば良いのだ。この町に、いやうちの下宿に舞い戻ってきて以来、彼女は新しい部屋も見付けないまま、親からの仕送りで日々を賄い、母との疑似親子の生活に甘んじている。これじゃ過去を振り捨てることなどできないと私は思う。処女性に拘るよりも、自己改革のほうがずっと大切なんじゃないだろうか。
まるで、世界中に自分よりも不幸な人間はいないと言ったふうに泣き崩れる毬子の丸く大きな背中に、手を掛けようかどうしようか悩んでいると、突然、毬子が「おねえさま」と顔を上げた。
「おにいさまに、私が純潔であることを証明してくださる」
「えっ」
「私、おにいさまやおねえさまだけには、そういう疑いの目でみられたくありませんの。だって、私が一番信頼している人たちですもの」
「えっ、ええ、いいけど…」
やはり、彼女の言っている意味は掴み切れなかったが、そんな事くらいで毬子の心の傷が少しでも癒えるのなら、たいしたことではないと思った。
私の返事を聞くと、毬子はすっと立ち上がり、襖をあけ「ごきげんよう」と小首を傾げた。つられて頭を下げたものの、私はまだ、彼女から受けた暗号のような言葉にとまどっていた。
サトルと毬子が、大学前の『サガン』で楽しげに話をしているのを見たのは、それからまもなくの事だ。
『サガン』の東側の席で、サトルは窓に背を向けて座り、毬子は、通りから自分が一番美しく見える角度に斜めに腰掛けていた。それも、私が、会社がえりに必ず通る道側にむかってである。
その日、サトルに食事にいこうと電話をしたのは、彼が外回りから銀行へ帰る四時すぎだった。いつもなら、すぐにOKの返事が返ってくるのに、今日は人と会う約束があるんだと、のりの良い彼らしくもなく、ちょっと言葉尻を濁した。
「そう、じゃあ、あさってにするわ。明日は、私も用があるから」「そうか。悪いな」
余韻のないまま電話が切れ、あれっと思ったものの、もう十年近い付き合いだもの、こんな日もあるわと疑問符を打ち消した。
会う人が、毬子だったなんて…。
彼らの裏切りにひどく腹は立つのだが、それ以上に、私は自分の人の良さにあきれた。
もう、毬子に苦しめられることなどないと思っていた。今の私には、彼女が失った『恋人』もいたし、その彼との将来もあった。だから、彼女がいかに私にゆさぶりをかけようと、私が自分を卑下することもないと、すっかり安心していた。
今頃になって、あの直接的ではないのに、こちらの心をぎりぎりと痛め付ける方法でやられるなんて、私もなんて迂闊だったのだろう。
サトルをうちに呼ぶたび、毬子は『おねえさまの恋人』のために手の込んだ料理を作り、子供騙しのような手作りのペンケースやぬいぐるみを、妹からの贈物だと思って受け取ってくださいねとサトルに渡した。私やサトルが、調子に乗って下品な話をはじめると、耳朶まで真っ赤にして逃げるように部屋を出ていった。
「毬ちゃんは、子供やなあ」
サトルは、彼女の大袈裟な恥じらいを笑いつつも、私にはない新鮮さを見付けていたのだろう。
男は、乙女がお好き…か。
ふと、毬子が力を込めて言った言葉が、頭をかすめ、吹き出してしまった。
『サガン』の中にいるのは、もう私のサトルではない。白無垢を着る資格を持った女が好きな、ただのつまらない男だ。
3
あれから、また六年が過ぎた。
その間の時間が、いろんな事を私の中で消化させ、毬子の事も少しずつ私の記憶の中から薄らいで行っていた。いまさら毬子を見付けたからと言って、追い掛けて彼女に恨み言を言うつもりもない。終わってしまった事は、仕方のないことだ。
それに、毬子にとってサトルがどれ程価値のある男だったのだろうかとも思う。実際に、彼女が言うだけの家柄や財力があれば、サトルなど選ばなくとも、いくらだって次の縁はあったはずだ。
えんじのワンピースを着た毬子らしい女を目で追っていたが、彼女の姿を見失った途端、ふっと肩の力が抜けた。
「そうそう、春ちゃん。あんたんとこ、一部屋あいていないかね」 クリーニング店の奥さんが声をかけ、私は振り返った。
駅に目をやったまま黙り込んでしまった私を、店主が訝しげに見ている。私は、どのくらいぼんやりしていたのだろう。あわててカウンターの中の奥さんの方を向くと、わざと剽軽に「あいてますよ。一階でも二階でも、自由にお選びいただけますよ」と、答えた。 今は、大学の隣にできた専門学校に留学して来ている中国人が二人と、訳ありらしいスーパーのレジうちの女がいるだけで、下宿はがらんとしている。一部屋でも埋まってくれるなら、どんな人であろうと文句はいえない。
「うちのお客さんの知り合いなんやけど、部屋を捜してる人がいてるんよ」
「私んとこなんかで良いんですか」
「昔、この辺でくらしてたって言うてたな。お母さんが、もともとこっちの出でな。親子二代の玉女ガールや」
玉川女学院は、今でこそ誰だって受験できる大学だが、昔は受験生の家柄までチェックしたという噂があり、この辺りでは二代続けての玉女出身者と言うのは、筋金入りの良家の子女とされていた。「へぇー、そんなおじょうさんが、うちみたいなボロアパートに住めるんかしら」
全くそうだなというふうに、クリーニング店の夫婦は顔を見合わせてから、知り合いに預かったというメモを取り出した。
「ホンダさんって言う人や。ホンダのタは、多いと書くんやな」
「えっ」と言ったまま、次の言葉が出なかった。
「気の毒な人なんやて。婚約してた人が、式の直前に飛行機事故で亡くなってな。そのあとエリート銀行マンからぜひにと言われて、ようよう結婚しようと心を決めたとたん、相手が海外転勤になってな。親が、一人娘を手放したくないって言い出して…」
クリーニング店の奥さんは、知り合いから聞いた話を、そのまま私に伝えた。
サトルが、エリート銀行マンになっている。あのサトルが…。
おなかの中で、くつくつと笑いが渦巻いていた。
「その銀行マンとは、結婚されんかったんですか」
「そうや。その男はな、許嫁がおったのに、そのお嬢さんやないといかんて言い出して、自分の結婚を反古にしたらしいのに、気の毒なこっちゃで」
「そうですか…」
「けどな、このまま両親と暮らしてたら、一生籠の鳥になってしまうと思ったんやって」
「今も、独身なんですね。その本多さんてかた」
念を押すと、クリーニング店の店主と奥さんは「そう言うてたな」と、頼りなげに頷き合った。
これ以上、私から何を奪おうと言うのだ。何をどうするつもりなの。ううん、何がどうなろうと、かまいはしない。この目で見てやろうじゃないの。
私は本多毬子に部屋を貸すことを決めた。
五月の第二日曜日。
一番最初、彼女が我が家に訪れたのと同じ頃、毬子は、やって来た。
アパートの部屋と玄関を磨き上げて彼女の到着を待っている私の前に、黒いタクシーがすっと止まり、中から朱色のスーツを着た毬子が降りてきた。
「いらっしゃい。お久しぶりね」
先に声をかけると、毬子は潤んだ黒目がちの目で私を見、「おねえさま。お元気でしたか」と、小首を傾げた。
「部屋は、二階の西よ」
「まあ」
私たちは、まるで何の遺恨もない旧知の友のように談笑しながら、軋む階段をのぼった。
私が仕事に出掛けている昼間の数時間をのぞき、私たちは、ほとんど一緒に暮らしている。
夕方、家に戻れば、毬子の作った食事が母屋の食卓に並び、エプロン姿の毬子が「すぐにスープを温めますわ」と、台所から出てくる。私は、満面の笑みで食卓を見る。
何も知らない人が見れば、私たちは本当に仲の良い姉妹のような友人だった。
「おじさまや、おばさまがお亡くなりになったなんて、嘘のようですわね」
「そうやな。こうしてると、あの時のままやもの」
母の死は本当に一瞬のことで、朝、気分が悪いと横になってすぐ妙な鼾をかきだし、病院に運んだときには、すでに脳死状態となっていた。たった一週間、私に何を言い残す間も無く母は旅だった。母の葬儀を済ませ、あちこちに会葬の礼状を書いているとき、父がやけに咳き込むようになり、病院に連れていくとガンが肺の一面に広がっていた。いつ頃からのものか分からなかったが、ガンそのものよりも、頼りの母が亡くなったことからの症状悪化だったような気がする。
「お気の毒に」
毬子は心底辛そうな声で言う。私は、毬子の得意料理である白身魚のムニエルを口に放り込み、オクラの輪切りが浮かんだコンソメスープをすする。
「毬ちゃんのご両親は、お元気なの」
「ええ、父は一応会社を退きましたんですけど、父の力で起こした会社ですから、なかなかお役御免と言うわけには…」
「そう。どういうものを扱ってるの」
「貿易ですから、いろいろ。宝石も、車も。最近では、カナダからウッドハウスのキットを仕入れて、別荘用に売り出しましたわ」
二はい目のスープを毬子から受け取ると、私は匙でオクラをつついた。
「お父様って、どんな方」
「私に、そっくりですのよ。父の大学時代のお友達がうちにきますでしょ。私を見るなりふき出しますの。まるではんこを押したような顔だって」
「そう、じゃあ、ずいぶん美男子なんだ」
「そんなことございませんわ」
毬子が、オクラを一かけ口に入れた。
私たちの食事は淡々と進み、淡々と終わる。交替で食器の後始末をすると、毬子がやってきてすぐに二人で習いはじめたフランス刺繍の課題を広げる。私は、ごく初心者用のランチョンマット、毬子は鏡台にかけるカバーを作っている。
静かに、私たちの時間は進んでいく。
夏がきて、私は以前から計画していた通り、一人旅に出掛けることにした。
「北九州をまわって、萩の友達のところに寄ってくるから。帰りは、八月三日になると思うけど…」
毬子は、一人で居ることを心細がった。アパートの住人たちとは、とうてい気があいそうにもないと言う。
「大丈夫よ。林くんたちは気の良い子よ。日本語だって話せるし」「ええ、わかっていますわ。でも…」
「久保田さんのこと」
言いよどんだ毬子の気持ちを察するように聞いてやると、彼女は「ええ」と、私の耳もとに口を近付け、まるで汚い物を踏み付けたように顔をしかめた。そして、久保田さんがどんなに不純な女であるかを次々並べる。
相変わらずねえ…。
私は期待どおりの反応をする毬子を見て、にやりと笑った。
毬子の部屋は二階の西のはし。以前、彼女が使っていた部屋だ。その隣には、二年前から久保田幸枝が住んでいる。
スーパーの店主のお手つきになった女らしく、一番最初はスーパーの社宅と言うことで、家賃もスーパーの会計から振り込まれていた。しかし、半年ほどで店主は顔を見せなくなり、かわりに、いろんな男が入れ代わり立ち代わり入っていくようになった。貧相な体付きの顔色の悪い女だが、男との縁は多いんだなと、私は見て見ないふりを続けていた。
去年の秋ごろから、作業服を着た若い男が、毎晩のように訪ねてきている。弟だときいてはいるが、そうでないことくらい私にだって分かっていた。
毬子の入居を決めたとき、私は、久保田幸枝の隣に彼女を入れようと考えた。彼女は、毬子が最も嫌うタイプの女だが、毬子が持っていないものを持っている。自分が手にしていないものなら、どんなにつまらないものでも取り上げないと気のすまない毬子のことだ。久保田の元に通う男達に興味を示さないはずがない。
「ほとんど口をきくことも無い人でしょ。気にしなくて大丈夫よ」 私は、ボストンをさげると茶の間を出て玄関に行った。そして、靴を履きながら思い出したように毬子に言った。
「ねえ、毬ちゃん。あなたも、もう子供じゃないんでしょ。久保田さんの事も分かってあげなさいよ。あなただって、サトルと、あんなことがあったんだし」
玄関先に立っていた毬子を見上げると、毬子は、視点を遠くに移したまま「サトルさんは、おにいさまですもの」と呟いた。
「へっ」
「おねえさま。私は、今も純潔ですわ」
「・・・・」
「当たり前じゃありませんの。私は、結婚前の身ですのよ。おにいさま、どうしてらっしゃるかしら」
「知らないの」
「ええ。おにいさま、あれから私を追って神戸まで来たんですけれど、父が会うことも許しませんでしたから。お気の毒でしたわ。門のところで、何日もうなだれるおにいさまを屋敷内から見るのは、とてもつろうございました」
玄関戸を締め、ふっと溜め息をついた。
私は、純潔ですわ…。
つい今、毬子が酔ったように呟いた言葉を反復しながら、私は駅に向かった。
「神戸まで、一枚」
駅の切符売り場で私は、九州ではなく神戸行きの切符を買った。ポートタワーに近いビジネスホテルも予約してある。元町のデパートで、この時期、九州の名産品展をしていることも、すでに調べている。
新幹線に乗ると、私はボストンの中から大学ノートを取り出した。五月の第二日曜から今日まで、毬子が漏らした彼女に関する全ての情報を、書き付けているノートだ。
彼女の実家。彼女の家族。父親の仕事。彼女の生い立ち…。
どれもこれも、砂糖にくるまれた夢のような話だ。しかし、読めば読むほど、こんな境遇で育った女が、あんな田舎町に流れ付き、潰れかけた下宿屋に住み着く理由なんて考えられなかった。
姫路を越えたあたりで兵庫県の地図を広げ、今日訪ねる場所を一つ一つ確認した。彼女が育ったと言う芦屋川の近くの町。父親の会社がある元町。六甲山の上の教会も、オリエンタルホテルも、もちろんリストアップされている。
いったい、どんな結果が待っているのかしら…。
すべての資料に目を通すと、私は座席に深く腰掛け目をとじた。
4
新神戸駅からタクシーに乗って市街地を抜け、ちいさな家がごちゃごちゃと入り組んだ海辺の町で、私は車を止めてもらった。薬品臭を含んだ重苦しい空気が町全体を覆っている。
近くの八百屋で、一玉二千円の西瓜を買い、私は手帳の『往路旅費』のしたに、『タクシー料金、千二百三十円』『みやげ西瓜、二千円』と記入した。女一人の生活である。旅行をすることだって、そう優雅にはいかない。まして、この先どんなことが待っているのかわからない旅だ。無駄な出費は控えなくてはならない。
八百屋で今から訪ねるところのだいたいの場所を聞き、西瓜の入った重いビニール袋を何度も持ちかえながら、町工場の間を擦り抜け住宅地に出た。借家らしい棟続きのちいさな家がいくつも繋がっている。どの家も、玄関戸のガラスのサイズがあわず、痩せたさんの間から家の中が見える。埃っぽい、手入れの行きとどかない荒んだ雰囲気だなと感じた。
住所表示を確かめ、私は一軒の家の前で立ち止まった。安物の色褪せたベビーカーが、玄関の狭いたたきに置かれている。乱暴に脱ぎ捨てられた踵の潰れた安全靴がひどく惨めだ。表札がわりに玄関先に張り付けてあった名刺を見て、私はごくりと唾を飲んだ。
『級ヤ岡アルミ 松岡悟』
サトル…。こんな所にいたなんて…。
彼に未練があるわけじゃないと思いつつも、鼻の奥がツンと痛んだ。
神戸に来る一週間前、私はサトルが昔勤めていた銀行の同僚から彼の居所を聞きあてた。彼は、サトルに口止めされていると渋ったけれど、サトルが私に対してやった不義を快く思っていなかったらしく、「実際、サトルのことみそこなっとったわ」と、話をしてくれた。
私と別れ、毬子と付き合うようになったサトルは、毬子の父親の会社に就職することになり銀行をやめた。最初は、神戸の本社勤務をし、行く行くは四国の代理店を統括してもらうと言う条件だったらしい。
「ごめんください」
しばらくあって、「どなた」と、聞き覚えのある男の声がした。「小峰です」
ばたばたと廊下を走る音がして、奥からサトルが出てきた。
「どうしたんや」
スポーツシャツに半ズボン姿の彼は、典型的な休日のお父さんと言った感じで、彼の後から出てきた二つばかりの男の子が、彼の足にまとわりついている。
「どうしたんや」
もう一度、彼が聞いた。
「ちょっと聞きたいことがあって…。捜したわ」
私は、土産がわりの西瓜を彼に渡すと首筋の汗を拭った。サトルは家の奥をうかがってから、男の子に「ママの所にいきなさい」と声をかけ、玄関先のサンダルをつっかけた。
「びっくりしたで」
海辺の児童公園のベンチに二人で腰をおろすと、サトルはまわりを気にしつつ言った。私たちの頭上では、ジンジンと耳に染みるような蝉時雨が続いている。
「びくびくせんでも、ええわよ。いまさら、慰謝料よこせとも言わんから」
「悪かったと思ってるよ。そやけど、あの件についちゃ、僕も被害者なんや」
「よく言うわねえ。男と女のことの責任は半々よ」
「そりゃそうやけど。僕は春子と別れ、仕事を失い、あの町にも住めんようになってしもうたんやで」
「自業自得やわ」
「まったく、あの女、酷いくわせもんやった」
ズボンのポケットから、くしゃくしゃになった煙草を出すと、サトルはしけったマッチで火を付け、大きな息を吐いた。
銀行をやめたサトルは、毬子に言われるまま神戸に来てアパートを借り、そこで暮らしはじめた。毬子の父親からは、二日にあけずワープロ打ちの手紙が届き、仕事に付くまでに必ず勉強しておくことの指示があったと言う。
サトルは、退職金とわずかな貯金で食い繋ぎながら、それでも熱心に図書館をまわり、英会話のスクールに通っていた。
「実際に、父親にはあわんかったの」
「あえんかったんや」
「どうして」
「神戸に来てすぐに毬子の両親と食事をする約束になってな。こっちもきばって船上レストランを予約したんや。払いは、あっちの両親がしてくれるだろうけど、一応僕が招待した形にしてくれって、あの女が言うから」
ところが、約束の時間になっても両親は現れず、かわりに毬子のおじさんと言うのが来た。百六十センチそこそこの小男で、毬子の父親と一緒に貿易の仕事をしていると言うのに、話す内容と言えば競艇や競馬のことばかりで、サトルもなんだか様子がおかしいと思った。
「でな、あの女に、本当におじさんなのかと聞いたら、実はあの叔父は父とは腹違いの兄弟で、しかたなく会社に置いてやっているって言うんや」
「そんな男を、なんで連れてきたんよ」
「僕やって、それを聞いたよ。そしたら、言うんや。あの人も心根は悪い人ではない。いつも優秀な自分の父と比べられ、あんな風になったんやって。でも、今度の自分たちの結婚をまとめることができれば、彼のことも父が認める。だから今日、父が来れなくなったのも何かのお導きだと思っておじさんをよんだって」
「そんな、妙な話ってあるの」
「今思うと、妙な事だらけやけど、あの時は、完全にあいつのペースにのせられてしまっていて。何て言うか、催眠術にでもかかっていたみたいなんや」
サトルは、それから半年間、貿易商社令嬢と結婚することを信じて、神戸で暮らした。毬子の父親とは、毬子経由で何度か会う約束を取り交わしたが、商品の買い付けに世界中を回っているとかで、とうとう一度も会うことができなかった。
毬子は、時々アパートにやってくるが、神戸では父の監視が厳しいからと、サトルが彼女の体に触れようとすると、するりと身を交わし帰ってしまう。それでいて、サトルの気をそそるように甘えた仕種は忘れない。サトルは、あせりと寂しさから憔悴していくばかりだった。
そのうち、彼宛てに届く手紙も滞り、これはおかしいと気付いた時には、毬子も神戸の貿易商社社長の夢も泡のように消えていた。「なあ、春子。いつやったか話したやろう。サギ師のこと」
「ああ、令嬢を装う女サギね」
「あの小説の女は、巧妙な手口で偽の宝石を本物とすりかえたり、戦後のどさくさに紛れて土地の登記を操作したりするんや。けど、本多毬子は、直接には、自分に何の益もないような事をしてると思わんか」
「・・・・」
「そりゃ、僕は職も春子も失ったけど、それであの女が得したことなんか、一つもないやろ」
「そうやね」
バッグから新しい煙草を出すと、私はサトルに渡し立ち上がった。しがない銀行員ではあったけれど、お洒落で、襟先のいたんだワイシャツなど着たこともなかった彼が、脇が綻び洗い晒して黄ばんだスポーツシャツを平気で着ている。私のサトルは、毬子と別れたから私の元に戻って来るのではなく、そこよりももっと遠いところへ行ってしまったのだと感じていた。
「お金よりも、もっと欲しかったものがあったのよ、あの子には」「なんなんや」
「わからんわ。私は、それを知りたいんよ」
蝉時雨がピタリとやみ、一瞬あたり一面に静寂が広がった。
サトルと別れて、またタクシーに乗った。次にいく町を告げると、電車の方が速いと言われたが、電停でサトルに見送られるよりも、タクシーに乗り込んで、さっとその場を離れたかった。
私は、自分が冷静であったことにほっとしている。もちろん、サトルに会っても、なるべく普通にしていようと思ってはいたけれど、彼が以前のままの姿で一人暮らししていたなら、あそこまで冷静でいられたかどうか分からない。サトルのくたびれはてた様子や、彼の足にまとわりついた子供の姿が、私の中の未消化の思い出をこなれさせた。
車窓から見える風景は、サトルの住むごちゃごちゃとした騒がしい町をはずれ、木立ちの多い静かな町並みになった。私の育った町よりもずっと緑が多く、ゆったりと空気が流れている感じだ。広大な敷地の奥まった所に、りっぱな家が、ひっそりと建っている。本当に人が住んでいるのだろうかと、疑いたくなりそうなほど、街は静まり返っている。
毬子から聞き出したことをヒントに、ここであろうと絞り込んだ辺りに近付いた。芦屋川にそって山手にのぼった屋敷街である。人通りはなく、まるで無機質な世界に迷い込んだ気分だった。
タクシーを降りると、急に寒気がした。一件一件表札を見ながら進むほどに、体はぶるぶると震え、いつしか歯の根もあわなくなってきた。毬子の話から、気取った上流社会を想像はした。しかし、それは私の乏しい知識からの想像に過ぎなかった。この街は、私が思っていたよりも、ずっと大きく、ずっと理知的で、悠然としている。私のことなど、ひとのみにしそうだ。
私は、とんでもない勘違いをしているのかもしれない。毬子をあばこうと、私はここににやってきた。彼女は、とんだ食わせものに違いないと思っていた。しかし、彼女は本当に彼女が言うとおりの人間で、彼女が私の町にやってくるのは、彼女流のお遊びなのではないか。私の心の小波などとうにお見通しで、今頃アパートで高笑いをしているのではないか。真実を知れば、私はもっと惨めになるかもしれない。
考えるほどに、私がここでしようとしていることは、あさはかな事のように思え、靴先を見詰めながら、だらだらと石段をのぼってはいるが、私の気持ちは萎えかけていた。
もう、帰ろう…。
たよりなく呟いて足元から目を離し、顔をあげた。途端、私は、あっと小さく叫んだ。目の前のレンガ作りの門柱には、『本多』と石の表札がかかっていた。
5
芦屋川の近くに、確かに本多毬子の家はあった。そして、昔、薬問屋をやっていて、今は貿易商社をしていると言う主人もいた。
しかし、私が会った本多毬子は五十すぎの婦人で、毬子とは似ても似つかぬ感じの痩せた女だった。痩せていると言ってもアパートの久保田幸枝のような痩せ方ではなく、バランスの取れたハイソな生活をしているものの体付きだ。
「そう、あなたも本多毬子をお探しなの」
本物の本多毬子は、私の突然の訪問に機嫌を損ねるでもなく、にこやかに答えた。
「あなたもって。私の他にもいるんですか。毬子のことを聞きに来た人が」
「ええ」
「どんな方ですか」
私の質問には答えず、女は写真をテーブルに広げ「この方でしょ。あなたの知っている本多さんは」と聞いた。
どれも毬子には間違いなかったが、私が知っている、いやうちに住み着いている毬子とは少し違う。
大きなウェーブのかかった髮の毛を右手でいじっている。指先には薄いピンクのマニキュアが施され、化粧の具合も大人っぽく手慣れた感じだ。着ているものは、とても地味で、赤を好んで着る毬子の趣味とは思えなかった。
けれど、潤んだような目も、少し傾げた首も、間違いなく毬子のものだった。
「この写真を持ってこられた方は、五十まえの学校の先生だったわ。松本の公立高校で世界史を教えてるっておっしゃってたわ」
「先生…ですか」
「結婚式を一週間後に控えてたのに、新婦が消えたんですって。新居の家具を揃えるお金も、新婚旅行用の貯金も、全部持っていったそうよ」
結婚詐欺と言い掛けて、私は口をつぐんだ。
「警察ざたにはならなかったんでしょうか」
「ええ。告訴はしないとおっしゃって帰られたから」
帰りぎわ先生は、本多毬子がたとえはじめから自分を騙すつもりであったとしても、彼女のことは恨まないと言った。五十近くまで、女の人との縁もなく寂しく暮らした自分に、たった半年ではあったが夢を与えてくれたのだから、彼女の持ち去ったお金は惜しくないとも。
「はあー」
そんな奇特な人がいるなんてと、私は、ちょっと驚いていた。その高校教師は、私と違い実害を受けているのだ。もしかしたら、他にもそんな人がいるかもしれないのに、そのままにしておくのも良くないような気がする。
「あなたの所では、どんな風に暮らしてたの」
細巻の茶色い煙草に火をつけながら、今度は本多夫人が聞いた。「ここの、このお屋敷の…。そのまんまのイメージでした。私は、いつも彼女のことを羨んでました」
「そう」
「本多さんは、この女を知っているんですか」
「ええ」
「どこで」
「昔、ここで暮らしていた雑役係りの娘よ」
「雑役係り…」
銀色のちいさな灰皿に、夫人は上品に煙草の灰を落とした。
「向こうに小屋があるでしょ。あそこに住んでいたの」
本多夫人が指差した先に木造の二階建ての建物があった。一階が車庫で、二階に四角いちいさな窓がある。北向きのその窓には、小花模様のカーテンがかかっているが、昼間でも日は差し込まないだろうと思った。
「雑役係りが子供を連れているなんて、長く知らなかったんだけれど、いつだったかしら、ここで本を読んでいたら女の子が出てきて、お辞儀をするのよ。こんな風にスカートを広げて、首を傾げて。それが、とてもお上手なの」
女の子の真似をしてみせると、本多夫人は、弾けるように笑った。「手招いてやると、あの子は捨て犬が声をかけられたときのように、期待いっぱいの目で走ってきたわ。それから…。私が、時間を持て余しているとき、あの子は、必ずあの小屋から出てきて、可愛らしく首を傾げるの」
母屋に入りこんだ毬子は、ピアノを教えてとせがんだり、料理番と一緒に作ったクッキーを奥様にと小箱に入れて彼女の誕生日に贈ったりしたという。
「可愛かったんですね」
「ええ。あの子には、人の気を引く天性の力があったわ。それに、私たちには長く子供がいなかったから、あの子におもちゃや洋服を買うことが楽しみだったの」
「でも…」と、言い掛けて本多夫人は、静かに白い煙をはいた。
「勘違いをしていたのよ、あの子。私たちが、彼女を養女にでも迎えると思っていたらしいの」
「でも、可愛がってらしたって」
「そうよ。あの子は頭の良い子ですもの、私たちがなにかをあたえれば、私たちの気にいるような事を言うのよ。それが、おもしろかったの」
「おもしろい…」
「ええ。あの子を連れてパーティーに行くでしょ。あの子は、どこのどんなお嬢さんよりもお嬢様らしかったわ。けど、所詮は、育ちの悪い女のサル芝居なのよ。本物に近いほど、嘘っぽく見えるって事あるでしょ」
「はあ」
「あの子の母親は、四国のほうの漁師の娘らしいわ。うちの雑役は小男だったけれど、母親が立派な体格だったらしくて、そっちに似たのね。ほら、どことなくエキゾティックでしょ。でも、お品にかけるのよ、そういうところが。私、いったん嫌だと思い出すと、だめなの」
足を組み替えると、本多夫人は、それまでの優しい笑顔を消して冷たく笑った。
十二年前、本多夫妻は男の子を養子に迎えた。その子が庭の花壇の柵に足を取られ怪我をし、それが雑役係りだった毬子の父親の整備ミスだと言うことで、毬子親子はここを出ていくことになった。「出ていっていただくことを言い渡したとき、あの子が言ったわ。私は、実はあの父の子ではありません。つい先日、それがわかりました。だから、父がお気に召さないなら、それは仕方がないけれど、私は、ここで一生奥様と暮らしたいって」
「・・・・」
「だから、申し上げたのよ。私は、そういうあなたの嘘が嫌になったんだって。嘘をつくことが平気になってしまった方とは一緒に暮らせないって」
メイドが運んできた紅茶を私に勧めると、本多夫人は立ち上がって窓べに立った。
「そのあと、あの子は、なんて言ったと思う」
「わかりません」
「奥様よりも、私の方が旦那さまに愛されている。私が居なくなれば、旦那さまは、きっと狂われてしまう…」
「・・・・」
「私に、追い出さないでくれと懇願したときの様子とはまったく違ってたわ。勝ち誇ったような、高慢な態度」
「・・・・」
「あの子の中には、違う人格が住んでいるのよ。自分が有利に立てるなら、平気で嘘もつけるし、人格のチャンネルも変えられるの。生まれついての下種な血のせいなんでしょうけど、一時でも、そんな女を可愛いと思った自分が情なかったわ。主人も、あんな小娘の誘いに乗ったりして迂闊だったのよ。でも、私たちは、それなりの物をお支払いしたし、その示談も済んでいるはずよ」
「毬ちゃんが、ご主人を誘ったと…」
「そうよ。あの子のあの嫌らしい目を見れば、分かるわ」
毬子に何の恩もない。彼女の事実が暴かれていく度、私は快感を覚えるはずだった。けれど私は、もうなにも聞きたくはないと思っていた。
確かに私は、毬子のなにもかもが気に入らず否定し続けていた。どうにか、彼女を暴いてやりたいとも思っていた。でも、今にして思えば、その裏側には、自分の知らない世界に住む毬子への強い羨望があった。
下種な血が毬子を嘘つきにしたんじゃない。暇を持て余した大人たちの勝手な都合で、毬子は、ああなってしまったのだ。毬子は、本多夫妻の愛情を得るために、精一杯の努力をしていたに違いない。たよりにならない父親への不安や、母親のいないさびしさを、自分の力で補うために…。
それなのに、努力がむくわれるどころか、無責任な愛情に翻弄され、飽きれば野良犬のように捨てられた。そんな事をするくらいなら、最初から声などかけるべきではなかったのだ。放っておいてやれば良かったのだ。毬子の空想癖は、自分のみじめさや、辛さや、悲しさから逃げる最後の手段だった。
目の前で二本目の煙草をスマートに吸う本多夫人に対する憤りが、私の体の中でふつふつ音を立てていた。
6
神戸のデパートで、鶏卵素麺や長崎カステラを買って家に戻ったのは、予定よりも早い八月二日の事だ。教会や、オリエンタルホテルにも一応行ったが、毬子のいう結婚式は実存しなかった。しかし私は、もうこれ以上、いろんなことを調べる必要はないと思っていた。
毬子の生い立ちを、あれこれつついた所で、私が失ったものが戻る訳でもない。松本の高校教師も、たぶん本多夫人と話すうちに、毬子のことを許す気になったのだと思う。
ボストンと土産の入った袋を、玄関に置くと中に向かって声をかけた。アパートの方に居たくないなら、こっちに来ていれば良いのだからと言い残してでかけたのである。毬子のことだから、母屋で刺繍布でも広げているだろうと思っていた。
「ただいま。いないの、毬ちゃん」
二、三度声をかけたが返事はなく、どこに行ったのだろうと思いながら障子をあけた。
「あっ」
窓もカーテンもしまった、蒸し暑い真っ暗な居間の真ん中に、毬子が座っていた。丸めた背中が、ひどく老けて見えた。
「なーんだ、居たの。この暑いのにどうしたん」
カーテンを勢いよく開け、窓に手をかけると、ずっと黙っていた毬子が「やめて」と、声を荒げた。
「どうしたの。なんかあったん」
毬子をのぞきこむと、彼女はわっと泣き出し両手で顔を覆った。訳が分からず突っ立っていると、アパートに繋がる廊下の方から誰かが走ってくる音がした。
「大家さん。その女、どうにかしてよ」
母屋に走りこんできたのは、久保田幸枝だった。
私が旅行に出掛けてすぐ、毬子からアパートを出ていくように指示があったと幸枝は言った。大家でもないあんたに言われる筋ではないとつっぱねると、翌日から、嫌がらせがはじまった。
「わたしんちの洗濯物をいちいち検査したり、入り口の所に耳を押し付けてたり、果ては部屋に入り込んで、私を淫売よばわりしたんだ」
「毬ちゃん。そんなことしたの」
「したさ。いくら大家さんの友達でも、そんな権利ないだろ。私は家賃払って、ここにいるんだからね。それに、他人の男に手を出すんなら、そいつの方が淫売じゃないか」
「手を出す…」
私は泣き続ける毬子を見た。毬子は、耳を覆い、そんな汚い言葉は聞きたくないと体を震わせている。
久保田幸枝は、今までの鬱憤を全部はきだしたあと、来月アパートを出ると言い残して、廊下に消えた。
毬子は、ずっと黙っていた。
夕方、夕飯の支度を始めてからも、まるで魂の抜けた人間のように、ぼんやり庖丁を握り、左の親指を切ってしまった。
「危ないわ。もう、あとは私がするから」
傷の手当てをしてやりながら言うと、毬子はまたぽろぽろ涙を零し、ごめんなさいと言った。
「いいのよ。なあ、毬ちゃん、人にはそれぞれの幸福ってあると思わん。それは、その人のもんやと私は思うわ。人の幸福を犯したりしたらいかんわ」
「幸福…」
「そうや。久保田さんの幸福は、恋人との時間やと思うの。恋人と過ごす数時間があるから、昼間の仕事も、一人暮らしにも耐えていけるんやないの。いくら好きになってしまったからって、久保田さんの彼氏と仲良くなったんは…」
「それは違いますわ」
急に語気を強めた毬子が顔を上げ、鋭い視線で私を見た。
「あの人のやっていることは、不純なことですのよ。いろんな男の方を部屋に連れ込んでるんですのよ」
「知ってるわ。でもね…」
「おねえさまは、そういうことにルーズでいらっしゃるから、わからないんだわ」
「ルーズ」
「だから、おにいさまだって…。私、おにいさまが気の毒でしたのよ」
待ってよ。どういうことよ。毬子の口から出てくる言葉を、信じられない思いで聞いた。
「おにいさま、おっしゃたわ。毬といると、自分の羽根をゆっくり自由に広げることができるって。でも、春子は、まるでメスなんだ。男と女の契りだけが全てと考えているようなんだって」
「・・・・」
「恋愛は、崇高なものですわ。簡単に体を許してしまうような方には、分からないものですわ。久保田さんの彼、私に助けを求めてましたの」
「いつから」
「ずぶん前から」
「どうやって」
「真夜中、私の部屋の壁に向かってテレパシーを送っていました」「・・・・」
「男の方は、女よりもずっとデリケートでロマンを持っていますわ。あんな女と知り合う前に、毬と知り合っていたら良かったって言いますの。私、彼が助けたかっただけですわ」
「・・・・」
「私が泣いた訳。おねえさまには分かっていただけるでしょ。私、今までに一度だって、あんな汚い言葉で罵られたことありませんわ」「・・・・」
「私の気持ちの中には、死んだ彼のことしかありませんわ」
「飛行機事故で亡くなった…」
「そうですわ」
「でも、亡くなった人の思い出を引き摺っていても、なにの解決もないのよ」
「私たちの愛は、おねえさまが考えているような、単純な物ではないのです」
毬子は言い切り、そのまま部屋に戻った。
窓べに腰掛け、軒の風鈴をつつきながら、私は、神戸の本多毬子とのやり取りを思い出していた。
「松本からいらした方が言っていたけれど、あの子、婚約者を飛行機事故で亡くしたって言ってたんですって」
「はい。エジプトの」
「まだ、あの子が高校生くらいの頃、二人でテレビをみていたの。その時、飛行機事故で婚約者を失った方が、恋人の遺体を引取りに空港へ向かう映像が映ったのよ。大勢の記者が彼女にマイクを向けて、残酷な質問をしていたわ。この先どうされますかって」
テレビの中の女の人は言葉につまり、目に涙をためてマスコミに精一杯の抗議をしていた。その時、毬子がぽつりと言った。
ー私なら、ここで純潔を誓えますわー
「その時、すでにあの子は主人を誘惑していたのよ。純潔なんて言葉、よくも口にできたものだわ」
あの子の中には、いくつもの人格が住み着いている。自分が有利に立てるために、一番効果的な人格を取り出して嘘をつき続ける。本多夫人が言っていた言葉は、全くはずれでもないだろうけど、果たして、それでいつも有利に立っていたのだろうか。
毬ちゃん。あんたの頭の中に組み立てられた世界を理解はできんけど、一つだけわかることがあるわ。毬ちゃんが自分の作った世界に生きようとすればするほど、毬ちゃんは自分をさらけ出せなくなって、迷い道に入り込んでいくのよ。
私も毬子も、もう三十を過ぎた。結婚だけが人生の全てではないと思いつつ、人知れず寂しい思いもしていることは同じだ。お互いの傷を労りつつ素直に向き合えさえすれば、私たちは案外うまくやって行けるような気がする。
毬子が消えたのは、その三日後だ。
いつもどおりの甲高い声に送られ、私は仕事にでかけた。夕方、家に戻ると、母屋の食卓の上に、彼女に預けたままになっていた鍵と、食費を入れていたがま口が置いてあった。
家計簿には、卵一パック、豆腐一丁まで書き付けてあり、一円の間違いもなかった。
そういえば、私は彼女にいつも心をかき乱されてはいたが、一度だって金銭的な損失を受けたことはない。部屋代が滞ったこともなければ、食費だって彼女のほうが多く支払っていた。彼女のいる間は家計が潤沢であったと言ってもいい。
彼女は、どこかの町でがむしゃらに生き、金を稼ぐと、この町に羽根を休めに来るのだろうか。この町で過ごす数か月だけが、彼女が作った夢の世界。彼女の人生の中で、一番彼女らしい時なのかもしれない。純潔を守り抜き、優雅で誰からも羨望視され、そして、自己陶酔できる。
それとも…。
いや、もう詮索するのはよそう。本当のことなど分かりはしない。彼女のことを、私は、やはり何も知りはしないのだ。
も抜けのからになったアパートの部屋の窓を開け、私はしばらく下宿屋を続けてみようと思っていた。ここを開けてさえいれば、毬子はきっと帰ってくる。きっと。
(了)