僕らの町 

         1

 電車を降りて駅前を通る時、僕はいつも落ち着かない。 銀色に光る宇宙船のような駅ビル。道路に並べられた煉瓦色のタイル。街路樹も標識も形が揃い、計算しつくされたパズルのようだ。すれちがう人は、みんな正面より少し高いところを見て風を切って進み行く。おどおどと回りの景色に驚きながら、しみったれたジャンパー姿でいるのは、僕一人のような気がする。
 この町が形を変え始めたのは、ぼくが小学校に上がった年の冬からだ。
 都心の土地が高騰し、便利な所に家を持つことを諦めた人達が、僕らの町に目をつけた。もとは塩田労働者の町として、都心の人達からはすげさまれていた僕らの町を、ニュータウンとして売り出す不動産屋がでてきて、県や市もその計画に乗った。
 たくさんの人をさばく立派な駅ができ、小綺麗な店が建ち、古く汚れた町並みは奥に奥に押されるようになくなっていった。
 そして気がついてみると、僕らの町は他人様の街になり、僕の住む椿団地だけが吹き溜まりのように駅裏に残されていた。

「おかえり」
 きしんで重い引き戸を開けると、母さんの声がした。「どうやった」
 内職用のミシンに向かったまま、母さんが聞く。僕は、佐藤さんから貰った大きな包みを母さんの横に置くと、何も答えずに台所の水道で顔をジャブジャブ洗った。
 今日、僕は、一か月前まで椿団地の住人だった佐藤さんの新築披露に呼ばれて、電車で二時間もかかる県北の町へ行って来た。佐藤さんは世話好きで、長いあいだ団地の自治会長をやっていた人だ。地主との地代交渉や市への環境改善の陳情など、佐藤さんが一人で引き受けていた。多少独断的なところもあったけれど、みんな佐藤さんを信頼し、佐藤さんに任せておけばややこしい手続きも避けて通れると感謝していた。
 だから、佐藤さんがいなくなることは、団地にとって大いなる損失だったのだが、自分の家を建てて団地を出て行くなんて佐藤さんがはじめてで、僕らは、まるで自分達の事のように仲間の門出を喜んだ。特に、隣組だった高木さんや藤原さん、それに佐藤さんを父さんのように慕っていた僕などは、なにをやっても笑いがこぼれた。
 三日ほど前、その佐藤さんから藤原のおばさんのところに、僕や高木さんと一緒に新しい家を見にこないかという手紙が届いた。
 僕らが小躍りして喜んだのは言うまでもない。おしゃべり好きの藤原のおばさんは、行きの電車の中で、佐藤さんのおばさんから聞きかじった家のことを、さも自分の家のことのように声高に喋った。部屋の様子や間取りまで、見なくても想像できるほどだ。
 藤原のおばさんが、「あんまり居心地がようて、浩二君、帰りとうなくなったらどうする」と僕に尋ね、「その時は、もう佐藤さんとこの子になっておしまいやね」と無責任な提案をした。僕も、その軽口にのって「そうしようかな」と高木さんに悪戯な笑顔を見せ、冗談など言ったこともない高木さんが「そりゃ、ええわ」と笑う。僕らは、まるではじめての旅に出る子供のようだった。
 でも、乗客もまばらになり、窓の外に住宅など見えなくなってしまった頃から、おばさんの声は元気がなくなり、雑木林が駅舎を覆うような町に着いたとき、僕らは完全に言葉を失った。
 ここがそうなんー。
 三人は顔を見合わせ、乾いた喉にごくりと唾を飲み込んだ。
 佐藤さんが、あちこち錆び付いた軽自動車で僕らを迎えに来てくれていて、僕らの顔を見るなり「よう来たな」と、前歯の抜けた口をほころばせた。僕らは無理に笑おうとしたけれど、上手に微笑み返すことはできなかった。佐藤さんのなりも、自動車も、僕らの考えていたものとはほど遠いものだった。
 押し込むようにして車に乗り込み、佐藤さん一人が「家の借金があって、歯も入れれん」と、冗談だか本当のことだか分からないような話をしながら、僕らはたんぼの中の狭い道を走った。
 うんざりするぐらい走ったところに、白い真四角の家が見えてきた。暗い海に浮かぶヴイのように、そこだけがやたら目立っている。それが佐藤さんの家だと分かったとき、なんだか僕はひどく惨めな思いになった。佐藤さんが気取って押した玄関ベルも、大理石に似せて作られたプラスチックの傘たても、ここでは異質だ。佐藤さんの家は完全に浮き上がっていた。
 でも、藤原のおばさんや高木さんは、白い門ぴから玄関、廊下の板まで褒めちぎり、佐藤さんの甲斐性をたたえた。佐藤さんは、だらしのない顔で、家を手にいれるまでの苦労を語り、玄関タイルの少しの汚れをいちいち雑巾で拭きとって歩いた。
 六畳の座敷には鉄板焼きの準備ができていて、スポンジの入った薄い座布団が行儀良く食卓を囲んでいた。
 「浩二君、どんどん食べや。肉は、なんぼでもあるんやからね。肉、好きやろ」
 裾のすり切れたズボン姿の佐藤さんに言われて、僕はどんなふうに返事していいのか分からず、あいまいに頷いた。 宴が始まっても肉をつつくのは僕くらいで、大人達はビールやお酒ばかり飲んだ。最初はかしこまっていた藤原のおばさんもコップ一杯のビールで元気が戻り、丸い体を揺すって演歌を歌い出した。高木さんは、上着を脱いでシャツ一枚の姿になる。鎖骨の浮き出た貧弱な体が赤く染まっていった。
 皆、上機嫌だった。「浩二君も、将来は、お母さんをこんな家に住まわせてあげなや」と誰かが言い、「そりゃ、ごっつうきばらなあかんな」と、藤原さんが僕のかわりに答え、どっと笑いが起きた。僕は、一人かたい肉を噛み締めながら、こんな宴会なら、ここでしなくても椿団地でしたほうがずっと似合っていると思った。
 騒ぎ疲れたところで家の中を見せてもらうことになり、佐藤さんのおばさんの案内で、僕らは狭い風呂場をのぞいたり、踏み込みの浅い階段を上ったりした。部屋は、二階と下に二つずつあって、どこも接着剤の匂いと、畳の匂いがまざりあっていた。
 「これだけ部屋があったら、喧嘩しても籠城するとこがあってええな」
 藤原さんが、笑いながら佐藤さんを振り返った。
 椿団地の夫婦喧嘩は日常茶飯のことだ。いつもどこかの家でののしりあいの声が聞こえている。言いたいことを言い合って一時間もすれば元の鞘に収まるのだが、椿団地の家には、たったそれだけの時間、お互いが心を静めるための空間もない。仕方がないので、喧嘩のあとは、どちらかが隣の家や団地脇の赤提灯に非難して時間をかせぐ。
 藤原さんの家では夕べもやり合って、おばさんが十一時ごろ僕の家にやって来た。そして、母さんに、さんざんおじさんの悪口を言い、十二時過ぎ、さっぱりした顔で帰っていった。
 「喧嘩もやり放題やがな」
 おどけたような藤原さんの言葉に佐藤さん夫婦は意味ありげな笑いを見せ、「それがな、そういうもんでもないんや」と言った。
 「ここに来てから、本当に使う部屋いうんは、台所と居間ばっかりで、家具もあっちこっち分散して入れてたんやけど、この通りなんや」
 台所脇の扉を開けると、箪笥も鏡台も、おばさんの内職用のミシンも、椿にいた頃と同じ配置で並べられていた。 「わしらの一生は、ここの支払いのためにあるようなもんや。もう豪勢な喧嘩はできん」
 佐藤のおじさんの言葉は湿っていた。
 藤原のおばさんが、その場の雰囲気をかき消すように声をたてて笑った。高木さんも、笑った。そして、僕も…。けれど、心の中は悲しい思いで一杯だった。
 お土産に渡された大きな包みを骨箱のように抱えて、帰りの電車ではみんな口数が少なかった。
 「通勤に二時間は、しんどいわな」
 「月に六万、三十年やで」
 ぼそぼそと言い合う大人たちの言葉の最後には、深い溜め息がついて回った。

 「お土産、なんやろうね」
 母さんが、ベリベリと包みを剥がすと、大きなやかんが出てきた。佐藤さんが勤める石井金物のマークがついている。隣の藤原家でも包みを開けたようで「しけた祝い返しやな」と言う、おばさんの声が聞こえた。
 母さんは、その声にちょっと顔をしかめたが、やかんを元どおり箱に収めると、押し入れの天袋に入れ、またミシンにもどった。
 屋根裏に上がって寝転がっていると、佐藤さんのやつれた顔ばかり頭に浮かんできた。何のために佐藤さんは、あんな所に引っ越して行ったんだろう。そりゃぁ僕だって、新聞広告で見る、三角ベースでもできそうな板ばりの家に憧れない訳ではない。下水の完備された衛生的な家に住めば、梅雨時のあのすえた匂いに悩まされることもないだろう。でも、人間には似合った器があるのだ。石井金物の給料で月に六万も支払っていたら、佐藤さんは、これからの三十年、何を楽しみに生きるのだろう。
 団地の中では識者だった佐藤さんの顔が浮かぶ。みんなに信頼され、だれにでも寛大な心を持っていた佐藤さんの威厳ある姿は、もう見れない。
 明かり取りの小さな窓から見える駅ビルの背中に夕焼けが写っていた。向こうからこっちを見ている人は、僕らの団地を見て何を思っているのだろうか。あのビルさえ建たなければ、佐藤さんはこの団地を出ていかなかったような気がする。いつまでも、立派な佐藤さんでいられたような気がする。

        2

 「浩二、ご飯」
 母さんの声に僕は目を覚ました。外はすっかり暗くなり、駅ビルの窓が豆電球を並べたように規則正しく光っていた。 「あんたが下りてくる音って、まるでゴジラやね」
 階段をかけ降りた僕に、母さんが言った。
 「ゴジラ」
 「何もかも踏みつぶして、どすどす突き進む感じやわ。あんたのお父さんも大きな人やったから、あんたもそのうち天井を突き破るくらい大きくなるんやろうね。そしたら、こんな小さい家にはすめんようになるわね。うんと大きな、御殿のような家に住まなあかんわねえ」
 母さんは自分で言った冗談に自分で笑った。母さんのこの手の話はいつものことで、いちいち返事をする気にもなれず、僕は真顔で茶碗をもってご飯をかきこんだ。
 「どんな家やった。日当たりがええって聞いたけど」
 母さんは、佐藤さんの家の話に話題を変えた。
 「日当たりはええやろ、まわりになんもないんやから」 「ええな。南向きの綺麗な部屋で大の字になって昼寝するなんて」
 僕は、母さんの言葉にカチンときた。新しい家と聞いただけで、そんなことしか想像できない事も嫌だった。
 「そんなん、貧乏人の発想や」
 吐き捨てるような僕の言葉に、僕が夕方帰って来て以来不機嫌なのが、佐藤さんの家のせいである事に母さんも気がついたらしく、それ以上何も言わなくなった。
 母さんも僕も、気まずい思いでお互いの目を見ないまま食べることに集中した。たくあんを齧る音や、菜っ葉汁を啜る音だけが規則的に続き、僕らは、ほぼ同時に箸を置いた。
 僕らは、母と息子、二人だけの家族だ。生活は、母さんの内職と三か月に一度支払われる国からの手当てにたよっている。その生活に卑屈にはなってはいないが、僕は母さんに対して感情のすべてをぶつけてはいけないと、いつもどこかで自分を制している。佐藤さんの言った『豪勢な喧嘩』の意味を僕は理解できる。豪勢な喧嘩のできる間柄でいるほうが、よほど健全なのだ。こうやって、お互いを気づかい、気持ちを押さえ付けてばかりいると、いつか爆発するのではないかと不安になる。
 茶碗を洗う母さんの横で、しばらくテレビを見ていたけれど、やっぱり僕の気持ちは暗く、母さんが鼻歌まじりにまたミシンを踏み出したのを機に、僕は銭湯に行った。

 『椿湯』の客は、ほとんどが、昔からこのあたりに住んでいるもので、年々客足は減って来ている。だから経営は苦しく、今の主人が死んだら店をたたむだろうと皆言っている。すでに、その日を見越して、何社もの不動産屋が話を持ってきているそうだ。
 ここがなくなれば、駅前のサウナ付きの銭湯に通うか、団地の中に自分たちで共同浴場を作るしかない。佐藤さんは、自営の風呂作りのためにいろいろ運動していたけれど、佐藤さんがいなくなると、その話もなんとなくたちぎえてしまった。風呂焚き当番だとか、火元管理者を作るだとか、椿団地の住人は、そんな面倒な事が嫌いなのだ。そんなことがきちんとできるなら、だれもここに住みはしない。
 浴室では、高木のおじさんが団地の連中に佐藤さんのことを聞かれ、困ったような顔で湯船につかっていた。もともと寡黙なおじさんのことだ、黙っているのは平気だろうけど、聞かれるたびに佐藤さんのやつれた顔を思い出すのは辛いだろう。
 僕は、壁側に腰を下ろした。
 「浩二くん」
 頭を洗っていると、横に高木さんが並んだ。
 「佐藤さんの家。来週、とりこわしやそうや」
 この『家』とは、佐藤さんが元住んでいた椿団地内の文化住宅のことだ。
 「川上さんも、奥さんの実家に帰るんで、来月団地を出るそうや」
 「そしたら、川上さんのところも壊してしまうんやろか」 「そうなるやろう、置いてても、しゃあないからな。こんな所に新しく入ってくるもんなんかおらん」
 高木さんは石鹸を頭に塗り付け、荒っぽく髪を洗い出した。
 
 家に戻ると、藤原のおばさんが来ていた。たぶん、母さんに佐藤さんのことを喋っていたのだろう。おばさんは、僕の顔を見るなりあわわてて席をたち、そそくさと出ていった。父親のいない僕が、佐藤さんを慕っていたことをおばさんはよく知っている。「佐藤さんが惨めったらしくってね」などという言葉は聞かせたくなかったのだろう。でも、おばさんが思うほど僕は子供ではない。
 「あんなん嫌やわ」
 おばさんが出て行き、隣の玄関戸が閉まったのを聞き終えてから、母さんがぽつりと言った。
 「ここを出ていった人が、どんなふうに暮らそうとほっといて欲しいわ。まるで、ここを出たから不幸を背負い込むような言い方して。ここにおったから幸福いうもんやないわ」
 母さんが、藤原さんの言葉に、こんな反応をしたのを見て、僕はちょっと驚いていた。母さんは、子供のようなところがあって、しょうでもない夢のような話はよくするが、感情を露にすることはない。特に、団地の人のことを、どうこう言う母さんは、はじめて見た。
 「こんな所にいるのが、ええ訳ないやないの」
 ミシンに向かうと、母さんは、なんども同じ言葉をつぶやいて、内職用の肌色の布地に針を落とした。

        3

 椿団地の地主さんが変わったという噂が広がったのは、秋も深まった十一月のことだ。九月の改選で、自治会の会長になった高木さんが地主さんに確めにいくと、それはとうの昔に決まったことで、前任の佐藤さんには告げてあると返事があった。
 高木さんの家に集まった住人たちの口は重く、打ちひしがれたような気持ちは拭えなかった。みんな佐藤さんの事を信頼していた。団地のまわりに側溝を掘ってもらうことを地主さんに取り付けたのも佐藤さんだったし、家賃の値上げを三年間据え置きにしてくれたのも佐藤さんの力だと思っていた。それなのに、地主交替の事は何一つ僕らに告げてくれなかった。こんな重大なことをー。
 「知ってたけん、一人だけ、さっさと出ていったんやね」 たまりかねたように、青木君のお母さんが、声を掠らせながら言った。青木君のところも、おじさんが建築現場の事故で障害者になり生活は苦しい。僕の家と同様、佐藤さんを心のたよりにしていた。それだけに、おばさんは佐藤さんのやり方が許せないふうだった。
 「自分だけ、甘い汁吸っとったんとちゃうか」
 独り言のような呟きがあちこちで起き、僕らの気持ちは、ますます落ち込んでいった。
 今、椿団地の土地を持っているのは、駅ビルを建てた不動産会社だと高木さんが言った。すぐに団地を取り壊すことはしないが、四、五年のうちには、このあたりを駅前同様の街に変えるつもりにしているらしい。僕らには、ここに住んでいるという権利しかなかった。土地も建物も、地主が貸さないと言えば、一定の期間内に返さなくてはならない。
 話し合いになど発展しないまま、みんな口々に佐藤さんへの恨みを言い、その日の集会は散会になった。住人たちはぞろぞろと高木さんの家を出ていく。どの顔も、ひとりだけ情報を得て不安定な世界から抜け出した佐藤さんへ怒りをかくしきれない様子だった。
 でも僕は、本当に佐藤さんがそんな良い思いをしたとは考えられなかった。佐藤さん一人が良い思いをしたのなら、あんな所へ引っ越していくはずがない。頭のいい佐藤さんのことだ、もっと効率的な策を考えたと思う。
 集会のときも帰り道も、ずっと黙っていた母さんが、家に入るなり「疲れちゃったね」と言った。
 口では、そういいつつ、なぜか母さんはせいせいした様子で、こうなってしまったことを喜んでいるようにも見える。帰るなり、すぐに踏み出したミシンの音も軽やかだった。

 不動産屋を相手に戦うには、僕らは、あまりに力不足だった。最初の頃は、団地内で顔をみあわすたび、何としても団地を守ろうという会話が交わされていたが、時間がたつにつれ、団地のものが一丸となって戦うという気持ちは薄れ、何度か行われた集会も何の発展もみせなくなった。 母さんは、最初の集会に行ったきりで、あとは一回も顔を出さず、かわりに小学生の僕が参加していた。他の家も、最初のころには夫婦で来て深刻そうにしていたけれど、そのうちおばさん連中だけの参加となり、高木さんの家は雑談の場と化してしまった。
 そうなったからと言って、もともと押しも弱く、統率力もない会長の高木さんには、方向修正などできず、不動産屋に家賃が以前よりもべらぼうに高くならないことだけを陳情することになって、「それは、高木さんに一任するわ」とだれかが言い、この問題は湿り線香のように火を消した。 おばさんたちが帰った後、僕は高木さんと一緒に、団地の横にある児童公園の鉄棒にもたれて駅ビルを眺めていた。 「みんな、あれでええんやろか」
 高木さんは、胸のポケットから煙草を出し一本吸い終えてから、「ええとか、悪いとか、わしらにそんな選択はないんや」と、言った。
 「なんで」
 「ここは、わしらの家であって、わしらのもんでない。いずれは出ていかないかんのや。それが何年後になるか、みんなわからんまま何年も住み続けてきたんや」
 「高木さんは、ここへの未練はないの。僕らの町やないか…」
 「・・・・」
 「僕は、ここが好きや。ここ以外で生活しとうない」
 「浩二君は、まだ小学生やないか。そんな年より臭い感傷を言うたらいかんと思うで…」
 僕に説教しながらも、自信のなさそうな高木さんの声に、僕は地主への陳情の結果を見るような気がした。

 母さんに集会で決まったことを告げると、「そう」と、感心の薄い反応だけが返ってきた。いつもどおり、下着の布をミシンに乗せ、レースやリボンを張り付けてはぽいぽいと箱に入れ、脇目もふらない。
 母さんの態度は、僕の不安をかきたてた。
 「母さん。僕らは、どうするんや」
 「なにが」
 「ここに住めなくなったらどうするん」
 ミシンの音が止まった。
 「僕らには、帰る田舎もないし、ほかの家に移るお金やってない。ほんとうなら、うちが一番考えないかんのとちゃうん」
 僕は子供だけど、母さんに育ててもらっている身だけど、どうにかしなくてはならないと真剣に考えていた。なにもできない自分の非力も嘆いていた。母さんに、何か考えがあるなら、僕なりに協力したいとも思っていた。
 カタカタカタ…。
 母さんの返事は、ミシンの音だった。

 十二月に入って、駅前が年末商戦で活気づいてきたころ、平田のおばあちゃんが引っ越して行った。おばあちゃんは一人暮らしで、近所のマージャン屋の下働きをしている。この間の集会のあと、みんな何がしか将来の展望を話すなかで、おばあちゃんだけはここの便利さはすてがたいから、ぎりぎりまで団地に残ると言っていた。
 突然の引っ越しには、不動産屋からの金銭授受が噂された。金額は分からないが、わずかなものだったらしい。きちんと交渉する人がいれば、もっと上乗せしてもらえただろうと大人たちは言った。
 おばあちゃんには、年に二回だけ帰ってくる息子がいる。帰るたびに、おばあちゃんのためた物をごっそりもって行くという話を聞いたことがある。四十ちかい息子に、這うようにして働いたお金をいともあっさり渡してしまう平田さんに、団地の人は同情しつつ、どこか冷たいところがあった。
 「平田のばあちゃんは、あれでええのや、健次が帰ってくれるだけでええ言いよったから。今度のお金も、おおかた健ちゃんの所に渡ってしまうんやろうけど、ばあちゃんが自分でしたことなんやから、他人はなんも言えんで」
 スーパーの『自由にお取り下さい』の野菜籠の中から、腐りかけたトマトを拾い上げ、「浩二君、これは煮て食べたらおいしいやろうか」と聞いた平田のおばあちゃんの事を僕は忘れない。そんな生活をしながらも、正月になれば、僕や青木君に硬貨のはいったポチ袋を渡し「今年も一年良い子でなあ」と言ったおばあちゃんを忘れない。

 雨が降り続くと、椿団地の不快さはますます酷くなる。下水管が詰まるとか、路地がぬかるむとか、それは昔からのことだから、なんとか辛抱できる。辛抱できないのは、最近、近所にできた新築マンションに住む奴等が、団地の脇を粗大ごみ置き場にし、雨が降ると、そこから真っ黒な得体の知れない液体が異臭を放ちながら団地に流れ込んで来ることだ。
 毒薬のような液体は、もしかしたら水道管にも染み込んでいるのかもしれない。蛇口を捻ると、同じ臭いが部屋中に広がった。
 その上、僕の家では、去年の台風の頃から雨漏りもひどくなり、一度は佐藤さんに直してもらったけれど、また違うところが壊れたらしく、今朝からの雨で僕の部屋である屋根裏はもちろん、一階にまで雨水が染み込んできている 「屋根に上がってみようか」
 「止めときなさいよ」
 「このままやったら、家中水浸しや。上からも下からもなんやから」
 「ええやないの。どうせ出ていかなあかん家よ」
 僕は、母さんの言葉を半分も聞かないうちに表へ飛び出すと、高木さんの家の横に置いてあった梯子をうちの屋根にかけた。高木さんの家も、大きな雨風のたびに高木さんが手を加え、どうにか姿を保っているという感じで、壊れた壁にはカラートタンを打ち付け、便所の窓はガラスのかわりに寸法のあわないベニア板を張っている。
 雨で滑りそうになりながら梯子を上りきると、軽石のようになった瓦があちこち割れているのが見えた。ずっと以前、佐藤さんが応急処置として割れた瓦の下にセルロイドの下敷きを入れてくれたことがあった。僕は、それを覚えていて、部屋を出るときセーターの下に古い下敷きを三枚突っ込んできていた。でも、目の前の屋根は、そんな簡単な手当てだけではどうしようもないくらい朽ちており、手の施しようもなかった。
 「だから、止めなさいっていったでしょ」
 僕の頭にタオルを被せてごしごしやりながら、母さんは笑った。僕は、ひどく惨めで、悔しく、鼻を啜りながら黙っていた。
 「浩二。引っ越そうか」
 母さんの提案は、突然だった。
 「もう、疲れたわ。ここにいることも、こんな生活も」 僕は、母さんの言っている意味がよく分からない。僕らは、どこへ行っても何をしても、どのみちこんな生活が待っているのだ。今より良い生活などないと思う。
 「父さんがね、あんたの父さんが、あんたを引き取ってもいいって言ってるのよ」
 父さん…。僕には、実感しようにもできない響きだった。僕が物心ついたとき、もう僕の父さんはいなかった。僕の最初の記憶は、この団地から始まる。母さんは、生まれたばかりの僕をつれ、瀬戸内の小さな町からこの団地に引っ越して来たのだ。
 「母さんと父さんが、また一緒になるってこと」
 母さんは、下着をたたみながら首を振った。
 「引き取るのは、あんただけよ」
 「じゃあ、母さんはどうするん」
 「結婚する」
 母さんの声は小さく、囁くようであったが、語尾まではっきり聞き取れた。僕はタオルをしっかりと握り、母さんを見た。母さんは、頬を赤らめて自分の言った言葉に照れている。僕は、自分の右目のすぐ下の筋肉がひくひくと痙攣しているのを感じた。
 「もちろん、すぐって訳じゃないのよ。でも、浩二だってわかるでしょ。この先、浩二が高校へ行くのも大学へ進学するのも、ここにいたんじゃ無理だってこと。母さんは、浩二に立派な人になって欲しいのよ」
 無口になった僕を励ますように明るい声で言った母さんは、下着の束をビニールの風呂敷に包むと、「工場に持っていってくるから」と家を出た。
 ばらばらと雨が窓を叩く。桟の痩せた窓は、ガラスの隙間からじわじわと雨を染み込ませ、いつしか大きな雨垂れとなって畳を汚す。
 僕は、もういちどタオルをあたまから被ると膝に顔をこすりつけて泣いた。

        4

 「浩二君、お別れや」
 青木君が、大事にしていたコミックの全集を持って僕の家にきたのは、正月三日の事だ。
 「これ、お別れのあいさつや」
 六冊のコミックを僕に手渡すと、青木君は不器用に笑った。
 なんども読み返して表紙がぼろぼろになり、中も手垢で汚れた本は、二人で市内の古本屋を梯子して集めたものだった。
 「どこ行くの」
 「奈良のばあちゃんのところや。うちのお父ちゃんとお母ちゃん、離婚するんや。お父ちゃん、施設に入るそうや」 「そうか」
 僕らの会話は淡々としていた。別れを湿った物言いで飾るのは大人だけだ。ここで、僕たちがいくら泣いたって、別れたくないと言ったって、僕らの力でどうなるものでもない。
 「これ、やっぱり青木君、持っとけよ」
 「ええんや。奈良のばあちゃんは僕に甘いけん、また買うてくれるから。ばあちゃんは、お母ちゃんがお父ちゃんと別れたら文句ないんや」
 「・・・・・・」
 「そしたらな。バイバイ」
 二台の軽トラックが青木君の家の前に止まり、少しばかりの荷物が二分されると、トラックは違う方向に出発した。ひとつは奈良へ、ひとつは障害者の授産施設のあるホームへ。
 朝早く出掛けていた母さんが、たくさんの荷物を抱えて帰ってきたのは、青木君のところのトラックが出ていって一時間ほどしてからのことだった。青木君が奈良に行ったことを告げると「急だったのね」と言ったきり、母さんはほかのことを聞こうとしなかった。
 「おじさんは、施設に入ったんや」
 「ここにいたら、お風呂に入るのもままならないもんね」 「でも、おじさんは一人になってしまったんや。一人になってしまったんやで」
 僕の叫びに、一旦僕を見た母さんは「そうね。家族が離れ離れになるのは悲しいことやわ」と抑揚のない声で呟いた。でも、すぐに僕から目をそらすと、買い物荷物を袋から出し机の上に並べだした。
 「こんなにたくさん、どうしたんや」
 「買ってもらったんよ。浩二には、これあげるって」
 母さんの手のひらには、最新型のCDウォークマンが乗っていた。
 二、三年前、学校でテレビゲームがはやり、クラスの皆がゲームの虜になったことがある。ほかの学校じゃ、そんなブームはとっくの昔に終わっていたらしく、「このへんの子供は奥手なんやろうかね」と、おもちゃ屋のおじさんは笑ったが、それは親の財政都合がおおいに関係していた。僕らは、夢が現実となるまでに人の何倍も時間がかかるのだ。
 あの時、結局ゲーム機を手にできなかったのは僕だけだった。青木君は、正月に奈良へ行ったとき、おばあちゃんに買ってもらったんやとまるで宝物のようにして持って帰り、僕に見せてくれた。たいていのものは僕と共有しようと言うのに、あれだけは一度もさわらせてもらったことがない。
 けれど、いつの間にか皆のゲーム熱は覚めてしまった。機械本体はあっても、つぎつぎに出る高価なソフトはなかなか買って貰えず、友達どうしで貸し借りするのにも飽きて、そのまま廃れてしまったのだ。
 その期間があまりに短く、それがこの町を象徴しているようで、僕はおかしくてたまらなかった。持たぬものの遠吠と言われるかもしれないけれどー。
 最近は、このCDウォークマンが、僕らの話題の中心だった。学校の行き帰り、ポケットから伸びたイヤホーンのコードが僕らのステータスシンボルだ。すぐに箱を開け、内装のビニールを引き剥がしたい衝動にかられる。説明書など見なくても、僕はほとんどの操作を知っている。
 でも、そんなことできない。それをしてしまったら、僕は、母さんと、これを僕に恵んだ男の結婚を認めたことになる。それは、僕と母さんが離れて暮らすことにつながる。 「学校で禁止されてるんや」
 「だってみんな使ってるやないの」
 「いらん」
 「これ貰ったからいうて、浩二になんかするわけやないのよ。もっと気楽に考えたらええのよ。ほんまに浩二はかたいんやから」
 「いらん言うてるやないか」
 そんなもの、いらない。そんなもので、僕が母さんから離れると思うな。僕は、母さんの手から包みを取ると、台所に向かって放り投げた。スチールのごみ箱に当たったウォークマンの箱は、大きな音をたてて床に転げ落ちた。
 母さんは、僕のしたことを咎めるでもなく、ぼんやりと包みを眺めていた。

 一人抜け、二人抜け、春を迎える頃、椿団地の住人は半分に減っていた。相変わらず自治会の会長は高木さんがやっていたが、自治会そのものが空中分解しているので、高木さんの仕事はほとんどなかった。
 藤原のおばさんは、正月明けから、駅ビルの清掃のアルバイトに行くようになった。夜中に仕事をするので、人と顔を合わすこともないから雪子さんも一緒に行こうと母さんを誘いに来たけど、母さんは、下着の縫製が忙しいからと断った。
 時給千五百円は、このあたりでは破格の賃金だが、泥酔客の吐癪物や残飯の搬出までしなくてはならないから、よほど神経の太い人でなければ続かないと、近所のおばさん達も噂している。それが四か月も続いているのだから、藤原さんの辛抱はなかなかのものだ。夜の九時頃出掛けて、明け方帰ってくる藤原さんは、やけに色白になり、少しやつれはしたが以前より金回りが良くなった分、綺麗に見える。
 「浩二君」
 銭湯から帰ってくると、藤原のおばさんが出勤するのに出くわした。
 「長いこと仲良うしてもろたけど、五月の連休に越すことになったから」
 こんな言葉は、もう何度も聞いていたから、僕はさほど驚かなかった。
 「あと七件やね。浩二君は、どうするの。雪子さんは根がお嬢さんやから浩二君も苦労するわ。なにいうんか、生活のためなら何としても稼がなあかんというところがないからな」
 藤原さんは、駅の向こうにできた新築アパートに移る。佐藤さんのように、自分の家に固執して借金や不便さを買うのは御免だと言う。今のアルバイトを続け、アパートに住めば、安気な暮らしができると笑っていた。
 母さんは、すでに藤原さんの引っ越しのことを知っていて、餞別がわりに下着のセットをあげたのだと言った。そして、浩二は気がついていないかもしれないけれど、藤原さんの仕事は、清掃だけではないのよと寂しそうに話した。
        5

 夏になって、僕は、とうとう父さんに会うことになった。父さんから、僕を引き取ってもよいという話があったのが去年の冬だから、父さんとしては、そろそろ結論を出してほしいのだろう。
 最初、母さんに、父さんのところに行かないかと言われたとき、僕は母さんと離れることなど絶対に拒否するつもりだった。けれど、この半年の間に、僕は少しずつ変わっていった。
 母さんは、土曜日になると、下着の束を持って「工場に収めてくる」とでかけ、その日は夜中まで帰らない。そして、帰ってくるときには必ず、僕あての高価な品物を持っている。プレゼントがだれからなのか、どういう理由で帰宅が遅いのか、いっさい言いはしないが、母さんが恋人に会いにいき、男が僕にと言って何かを買って持たせることは想像できた。
 それは、僕を言い様もなく苦しめた。はっきり、そんな男の買ったもんなんかいらないと言えればいいのだが、いつの頃からか、僕は男のくれた流行りのトレーナーを身に付け、新しいCDや本を机の上に並べるようになっていた。そして、そんな品物を親戚のおじさんから貰ったと言って学校の友達に見せびらかしている。いつも仲間より一歩さがった所にいなくてはならなかった僕を、皆が羨ましげに取り囲む。その優越感と、そんなことに優越感を感じる自分への嫌悪感が、僕の体の中で責めぎあっていた。

 夏休みに入って最初の日曜日、父さんから送られた切符とお金を持って僕は一人で電車に乗った。母さんは、何も言わずに、黙ってホームに立って僕を見送った。僕は心のすみで、母さんが泣いてくれることを期待していたと思う。やっぱり行かないで欲しいと言ってほしかったと思う。けれど母さんは、口をへの字に結んだまま僕に弁当を差し出すと、電車を下りた。
 「母さん」
 窓から首を出し、僕は母さんを呼んだ。
 「一つだけ聞いてもいい」
 母さんは、こくりとうなずいた。
 「もし、僕が、このまま父さんの家にいるって言うたら、母さんは、すぐに、あいつのところに行くん」
 母さんは僕からすっと目をそらすと、反対側のホームを見ながら、「そうねえ」と、あいまいな返事をした。
 父さんと母さんが、なぜ別れてしまったのか、僕は知らない。父さんの所に行くことになってはじめて、父さんが母さんより十二歳年上で、五年前から独立して印刷屋をやっていることや、今は別の女の人と結婚していることを知らされた。
 母さんは、父さんと暮していた頃のことは話さなかった。僕も、それ以上のことを聞くつもりはなかった。なにをどう聞いても、僕が父さんに何か期待することはできない。僕の中の父さんは、形を持たないのっぺらぼうなのだ。
 それよりも、今の僕にとって一番の気掛かりは、電車が発車する前に聞いた母さんの言葉だった。電車の青いシートに深く腰掛け、足をぶらつかせながらマンガを読んだり、CDを聴いたりしているが、僕の頭の中では、母さんの「そうねえ」と言う言葉がぐるぐる回っていた。
 「そうねえ」は否定ではない。積極的ではないにしろ肯定なのだ。やっぱり、母さんは僕よりもあの男を選んだのだろうか。だとしたら、僕と母さんの椿団地での十二年間は何だったのだろう。確かに貧しくて、僕は欲しいものの半分も手に入れることはできなかった。けれど、それが嫌だと思ったことはない。むしろ、あの中に入れば、貧しいことも苦ではなく楽しめたほどだ。そして、がつがつと金を稼ぐことよりも、僕との時間を大切にしてくれた母さんを尊敬できた。それでいいじゃないか。それのどこがいけないんだ…。

 僕の気持ちなど無視したように、電車は、どんどん父さんの町に近付いて行った。僕の町と父さんの町のちょうど真ん中にある町を過ぎたあたりから、僕は駅が一つ過ぎるごとに体の部品を一つ一つ緊張させた。緊張させることで、気持ちを、もっと現実的なところに引き戻そうとした。
 今は、いろいろ考えるより、僕が父さんに気にいって貰うことが先決なのだ。そうしなければ、僕は行き場を失い母さんの足手纏いになってしまう。それは、僕にとっても、母さんにとっても不幸なことだ。
 母さんの結婚を納得した訳じゃないけれど、あれこれ考えることは贅沢なのだ。ともかく僕は、父さんに気にいってもらわなくてはならない。
 どうすれば、父さんに気にいってもらえるだろう。子供のくせに浩二君は妙に覚めているところがあるから損をしていると、以前、佐藤さんに言われたことがある。もっと剽軽に子供らしく振る舞わなくてはならないのかもしれない。列車がトンネル入り、窓に自分の姿が写るたび、僕は口を閉じたり歯を見せたり耳をひっぱったりしてみた。窓の向こうには、歪な笑顔の僕がいた。
 車内アナウンスが父さんの住む町の名前を告げ、乗換え列車の案内をはじめた。僕は、足下のリュックを背負い、黒い野球帽を被ると、列車の出口まで走っていって、駅の方をのぞきこんだ。
 明るい色調の建物が並ぶ、お菓子の国のような新興住宅地が見えてきた。白いペンキで塗り立てられた駅は、ホームに添って赤いサルビアが植えられている。ヴァイオリンやピアノの音が聞こえてきそうな町が、手を広げて僕を待っている。
 しかし、列車が止まり、プシューという音とともにドアが開いた途端、僕の足は動かなくなってしまった。うしろの客に体を押されるまで、全身の毛穴を逆立て体を冷たくしていた。
 僕は、この町では暮らせない。なぜなら、この町には僕の知っている匂いがないのだ。海から流れてくる潮の匂いも、商店街に漂う茶色い天ぷら油の匂いも、下水管の詰まった匂いもない。あるのは、鼻をつく白いペンキの匂いだけだった。
 父さん…。僕は、必死で父さんを捜した。はじめての町で、僕をこの不安から救ってくれるのは、見たこともない父さんしかいないと思った。
 人波の中に、ぬっと飛び出た灰色の開襟シャツ姿の父さんを見付けたとき、僕の体はへなへなとその場に崩れそうになった。僕は、一張羅の笑顔を作ると、父さんに向かって黒い野球帽を振った。目立つように、わざとおどけた振りを付け、小さな体を何度もジャンプさせた。
 でも暫くして、僕は笑顔を作ることも跳ねることも止めた。
 僕が、仲間を捜す勘のようなもので、父さんの目印の週刊誌など見なくとも、すぐに父さんを見付けられたのに対し、父さんは、僕くらいの年頃の子に声をかけては「いや、失敬。間違いました」と何度も頭を下げている。父さんにとって、僕は他人なのだと思った。血の繋がりはあっても、僕達は家族ではない。
 ようやく僕を見付けた父さんは、「思ったよりしっかりしているのでびっくりした」とか、「母さんにそっくりだ」とか、大袈裟に驚いて親しげに話し掛けてきたが、僕はもう、父さんとの対面に対する感動を失っていた。
 父さんの家には、僕と腹違いの弟がいた。父さんの新しい奥さんにそっくりで、小太りの色の白い奴だ。アレルギー体質だから食べてはいけないものがたくさんあるのだと、弟の食事だけは、いつも皆と違うものが並んでいた。
 「嬉しいわ。浩二君みたいに何でも食べてくれる人がいたら、お料理も作りがいがあるわ。康夫ちゃんも、早く卵や肉が自由に食べれるようになったらええのにね」
 おばさんは、「アレルギー用のものは、何でも高くて」と口では言いつつ、弟の皿に乗っているハンバーグをさして、これはカンガルーの肉でデパートの特別なルートでしか買えないものなのよと、楽しそうに説明した。
 おばさんもカンガルーしか食べれない弟も、僕に対しては優しく、もう部屋の準備もできているのだからいつから来てもいいのよと言った。おばさんの甲高い幸せそうな笑い声の響く家で、僕が彼らに邪険にされたことなど一度もない。清潔なお風呂にはいつも一番に入れたし、テレビのチャンネルだって、僕の思いのままだった。このまま、ここの家にいたって何の支障もないように慣らし期間は過ぎていった。
 でも僕は、四日目の朝、父さんに、今日椿団地に帰ると告げた。予定では、次の日曜日に父さんが僕をつれて母さんの所に行き、三人で今後のことを話し合うことになっていた。 
 「どうして」
 父さんよりも先におばさんが聞いた。
 「康夫ちゃんだって、浩二君がいてくれたほうが楽しいって言ってるのよ」
 弟が、大きく首を縦に振った。僕は、うつむいたまま、膝小僧を両手で握った。
 「おばちゃん、なにか浩二君を悲しませるようなこと言った。だったら、ごめんなさいね、許してね」
 僕が、ここを出て行こうと思う理由はいろいろある。でも一番の理由は父さんの家族のこの特別な優しさにあった。 もしも、父さんの奥さんや弟が僕のことを敵対視して冷たくしてくれたなら、僕は父さんの子供になったかもしれない。僕にだって、父さんに保護されたり甘えたりする権利があるんだぞと頑張れたかもしれない。けれど、彼らがあまりに優しすぎることが、かえって僕を孤独にさせた。僕は、単なる遠来の客なのだと思うしかなかった。そして、僕がこの中に入ることによって崩れていくバランスを考えると、とうてい僕はここには居られないと思ったのだ。
 おばさんが父さんに僕を説得するように言ったが、父さんが「浩二がそう言うなら仕方ないやないか」と、ほっとしたように言い、僕は椿団地に帰ることになった。
 駅まで僕を見送りに来た父さんに、僕は、母さんが再婚するかもしれないことを話した。 
 「そうらしいな」
 「嫌なやつで、これみよがしにいろいろくれるんです。それを突き返すこともできん僕は、もっと卑しい人間やけど」
 「そんなに自分を卑下するな。頭で思ってることを、そのまま実行できる奴なんて、そうそうおらん。それに、そんなに嫌なら、いつでもうちに来たらええんやで。うちは皆、浩二のことを家族や思ってるんやからな」
 父さんの嘘に、僕は満面の笑みを返した。この人のところには来られないけれど、そう言ってくれただけで僕はいいと思った。
 帰りの電車の中、僕は、この先どうするつもりなんだと自問を繰り返した。後先のことも考えず、父さんの家族の優しさを突っ張ねてしまったけれど、僕のしたことは間違っていたかもしれない。僕が父さんの家にいけば、すべてがうまくおさまるはずだった。僕が帰れば、何もかもがご破算なのだ。
 駅についても、僕は団地には戻らず駅ビルの裏にある出荷場のリフトに座って、ビルを見上げていた。母さんが、どんなにがっかりした顔で僕を迎えるだろうと思うと、心はますます重くなる。ガードマンに注意され、仕方なくリフトを下りたけれど、駅から椿団地までの道すがら、このままどこかに行ってしまおうと何度も思った。児童公園の鉄棒に逆さにぶら下がったり、椿湯の裏でボイラーマンのおじさんの手伝いをしたり、できる限り時間を潰して僕は家に戻った。
 家の前で一度深呼吸をして、そっと玄関戸をひくと、母さんが惚けたように窓に向い駅ビルを見ていた。
 「母さん」
 僕の声に、ゆっくり振り向いた母さんは、右目を腫らした土色の顔で、「あのビル、いくつ窓があるんやろう」と呟いた。
 「どうしたん」
 僕の問いに、母さんは突然涙をぽろぽろ流し、裸足で玄関まで走りおりて来て、僕の体をきつく抱いた。母さんの鼻水の混じった涙が僕の耳もとに流れおちた。

        6

 二学期がはじまると、立ち退きの話は本格的になり、引っ越し屋のトラックが椿団地の中を徘徊していた。不動産屋の考えよりも、ずっと早く人々が立ち退いてしまい、なかば拍子抜けした感じだ。残りは四件。高木さんの家と、僕のところ。あとはここに住所はあるが、別に住まいもある人達だ。彼らは、立ち退き料の上乗せだけを問題にして粘っているのであって、僕や高木さんのところとは意味が違う。
 「とうとう、最後になったな」
 夕方、児童公園で一人ボールを蹴る僕を見つけた仕事帰りの高木さんが、自転車にまたがったまま声をかけた。
 「浩二君は、お父さんの所へ行くんとちゃうかったんか」 「行ってみたけど…やめたんや」
 「そうか」
 僕と母さんは、また振り出しに戻った。
 母さんは、僕が父さんのところに行った日、やっぱり子供を置いて行くことはできないと男に言い、約束が違うとずいぶん酷いことをされたようだった。殴られた右目は、何日も腫れが引かず、僕はなるべく母さんの顔をみないように過ごしていた。
 一昨日、男が僕や母さんにあてがった品物を引き上げにきた。僕らは、部屋の隅に座って、僕の机の引き出しまで残らず点検する男を見ていた。男は、夜店で買ったポプリの壺まで中を確認しチェッと舌打ちして箱にいれた。
 帰り際、母さんが男に向かって「それも、持って帰って」と、玄関の軒に逆さにぶら下げられた花束を指差した。母さんの誕生日、男が格好をつけて持ってきた薔薇の花束だ。母さんは、男の人から花束をもらうなんてはじめてと、花が枯れても軒先につるし、少女のようにうっとり眺めていた。
 「そんなちゃちなもん、目障りやわ。どうせくれるなら、百本も二百本もの束が良かったわ」
 男は、真っ赤な顔をして枯れた花束を引き下ろすと、床に叩き付けて出て行った。
 彼が帰ったのを確認してから、僕はセーターの下からスライムの瓶を取り出した。奴が来た時、机の上にあったのを、とっさに隠したのだ。これがどうしても残したいものではなかったけれど、男に全部返してしまうなんて癪に触った。
 「あいつ、これには気がつかんかったわ」
 僕がにっと笑うと、母さんはふふんと鼻を鳴らして、やっぱり母さんの方が上手だと、座布団の下に隠してあったブローチを僕に見せた。

 自転車を公園の入り口に置いた高木さんは、作業着の胸ポケットから、食べ掛けのノシイカを出して僕に差し出した。
 「浩二君らがここへ来た頃のこと、覚えてるわ。お母さん、まだ二十二、三やったもんな。こんな所で暮らせる人やとはおもわんかった」
 「・・・・・」
 「あれからでも、十二年もたつんやな」
 噛み付いたノシイカを機械油で汚れた手で引っ張ると、イカに油がついて黒く染まる。それでもかまわず、高木さんは旨そうにイカを食べる。僕は、ほとんど何の感動もないままイカを噛み続けた。
 「浩二君。おっちゃんたちと九州行かんか」
 高木さんが、ぽつんと言った。
 「えっ」
 高木さんの奥さんの遠縁にあたる人が、九州で料理屋をしているのだと高木さんは言った。結構な羽振りで店を大きくしたから、仲居を探している。高木さんの奥さんも、仲居として向こうに行く。
 「高木さんも、そこで働くの」
 「いや…、しばらくはヒモやな…」
 そう言って口ごもる高木さんを見て、僕はちょっと笑った。
 「よかったら、浩二君のお母さんも、そこで働けるよう口きくで。大きな料理屋やから、へんなとこやあらへん」 「九州か…」
 「雪子さんは若いんや。綺麗にして働いた方が身入りもええし、気もはれる。男に色目使うような仕事なら、おっちゃんもすすめんけど、違うからな。大きな料理屋なんや。休みもちゃんとあるし、浩二君やって一緒に店の寮にすめるんやからな。とにかく、大きな料理屋やから」
 高木さんは「大きな料理屋」というところを何度も念押しし、寮の写真を見たが、まるでマンションみたいだったと嬉しそうに話す。そして、僕から母さんに言ってみたらどうかと勧めた。
 家に戻って、母さんに高木さんから聞いた話をすると、母さんも、高木さんの奥さんに誘われたと言った。
 「どうする」
 高木さんは、たよりになるというタイプではないが、僕にとっては、間違いなくこの十二年一緒に生活をした家族だった。知らない所に行くにしても、少しは心丈夫だ。
 「いかないわよ」
 ミシンを踏む足をとめないまま、あっさりと母さんは言い、どうしてと聞くと、「ここを引き摺りたくないから」と答えた。
 「浩二。母さんはね、ここに来た時から、ここを出ることだけを考えて来たの」
 仕上がったシャツを、ぽいと脇の箱に放り込んで、母さんが僕を見た。
 「ここを出るってことは、ここの人達と縁を切りたいってこと」
 「そうよ」
 また、カタカタとミシンがなる。
 「私は、浩二を、こんな町の人にするために生んだんやないわ」
 母さんは言った。
 「こんな町の人って、どういうこと」
 「人のお零れや、棚ぼた式の幸運を待ってる人よ。そんな人間を、受け入れてしまう町よ。ここの人の力かりたら、一生ここから抜け出せんのよ」
 「こんな町たって、僕らは、そのなかでも一番のみそっかすやないか。どうせ、一生人のお慈悲にすがるしかないんや。ええかっこしても、しゃあないやないか。僕らは、僕ららしく生きるしかないんや」
 僕が言い終わるのと同時にカタッとミシンが止まり、母さんは椅子を跳ね除けるとミシンの前にまわって、僕の頬を平手で思い切りぶった。
 そして、ミシンの脇の置いてあった鋏を手にとると、仕上がった下着の入った箱めがけて鋏の先を突っ込もうとした。僕が母さんを突き飛ばさなければ、母さんは、箱の中の下着を切り刻んだ。
 「そうよ、どうせこんなもんこつこつ縫っても、なにも変わりゃせんわよ。今日は牛乳買うたから卵をやめるとか、今月は病院行ったから、お米は何日まで買えんとか。そんな生活よ。私は、そんな生活に負けて、浩二のことも手放そうとしたんよ。でも…、でも、みそっかすやないわ」
 母さんは、ミシンに座りなおすと、うしろの棚から肌色のジャージーを出し、まるでミシンと一体化したような動きでシャツを一枚縫い上げた。そして、また棚から布を出し、ミシンを踏む。母さんは、泣いていた。カタカタとなるミシンを睨み続けながらー。
 一気に数枚のシャツを仕上げた母さんは、頭をあげて一つ大きく息をすると「浩二の言うとおりよ」と言った。
 「私らの力だけでは、もうどうにもならないこと、わかっているわ。こうやって粘ったところで最後は追い出されることも、突っ張らずに人の慈悲にたよってしまった方がずっと楽なことも、それが私らに一番相応しい道であることも。でも、それを認めてしまえば、私の最後のプライドはどうなるの」
 「母さん」
 「貧しいからって、プライドも夢も捨てなあかんの。私は、そんなんいやよ」
 カタカタと忙しげになるミシンの音を聞きながら、僕は、奥歯をぎりぎりこすりあわせた。

        7

 高木さんの家が壊されている。
 大きなショベルの付いた車がひと押しすると、高木さんが苦心して作っていた路地の涼み台も、玄関先の表札も一気に廃材の中に飲み込まれた。
 取り壊しを請け負った解体業者の人達が、コーヒーの空き缶を高木さんの家の残骸の上に放り込んでいる。こんな所に人間がすんでいたとはねぇと呆れ声で言い、そのあと、ずっと作業を見ていた僕に向かって、「ぼくの所は、いつや」と笑いながら聞いた。
 僕は黙って家に入ると、屋根裏に上がって、また駅ビルを眺めた。ふと、あそこには昔なにが建っていたのだろうという問いがわいた。僕は、そんなことを思う自分に驚いていた。僕はあの辺りでいつも遊び、ついこの間まで、鮮明にその風景を覚えていたはずだ。ところが今、思い出そうとしても思い出せない。それどころか、ずっと昔から、あの場所にはあのビルがあり、僕はビルの事しか知らないのではという錯覚に陥っている。
 夕飯のとき、母さんに、あの辺に何があったか聞いた。母さんは笑いながら、タイヤ工場とマネキン会社の倉庫があったじゃないのと答えた。
 「マネキンの倉庫は、商店街の裏や。今でもある…」
 「あら、そうやった」と、母さんは自分の勘違いにたいして驚きもせず、テレビの映りが悪くなったわねえと言いながら箸を動かしている。
 「ここ、どんな風になるんやろうか」
 「見に来たら、ええやないの。浩二は、まだいっぱい時間があるんやもの、ここの十年先も、二十年先も見られるわよ」
 「ここに団地があったこと、皆忘れるんやろうか」
 母さんが、僕を見て「それで、ええのよ」と言った。そして「形のあるもんは、いつか崩れて、忘れられる。だから、新しいもんができるんよ」と、続けた。

 夕飯が終わると、僕と母さんは表に出た。高木さんの家はすっかり形をなくし、その跡には新しい赤土が盛られている。母さんが、見事なもんやと呟き、僕は黙って頷いた。 「なあ、浩二。私らだけでも、ここを覚えといてあげようか」
 赤土を掌でもてあそびながら、母さんが言った。
 「さっきと、話が違うやないか」
 この団地でのことを、母さんは自分の歴史の中から消し去りたいように言い、泣いたこともあった。
 「人の心はうつろうもんよ」
 母さんは、まだ赤土を愛しげに触っている。
 「浩二が生まれたとき、私、これは私の出発やと思ったのよ」
 「出発…」
 「浩二のお父さんはええ人やったけど、私には重荷やったわ。常識的で、善人で、危ないことは一切やらず、こつこつお金をためる働きもん」
 「ここの団地の人らとは、おお違いやな」
 「そうね。自分の会社を持つことしか頭にない父さんを、母さんは好きにはなれんかったの。だから、ここへ越して来たとき、ここはなんて自由なんやろうと思ったわ。皆、明日の事なんか考えてなくて、その日が愉快なら良いみたいな人ばっかり」
 「でも、母さんは、その人らみたいになりとうなかったんやろ」
 母さんは頷き、「偉そうになあ」と苦笑した。
 「差別の心やろうな、やっぱり」
 「差別…」
 「根のところで、自分はここの人間ではないと思ってたんよ、自分のことも団地の人のことも差別してたんよ。だから、貧しくっても涼しい顔ができた。私はここにいるような人間やないって思ってたから」
 「・・・・」
 「けど、とうとう最後になってしもうた。やっぱり、私は、ここが似合う人間やったのかもしれんな」
 「母さん…」
 「今になって、やっと分かったわ」
 うーんと伸びをした母さんは、「これ貰おうか」と僕の家と棟続きの空き家になった藤原さんの家の壁板を両手で剥ぎ始めた。二、三枚剥ぎ取ると、今度は、裏戸のところに貼っていたベニアを剥がそうとし、手では剥がれないことが分かると、僕に何かテコになるものを捜してくるように指示した。
 僕は戸惑いつつも、直立の姿勢を取って敬礼をし、児童公園まで走っていって、すべり台の下に落ちていた木の棒を持ってきて母さんに渡した。
 ベニアの次は、トイレの網戸とか、僕んちのものよりはましという程度の襖とか。鼻歌を歌いながら次々と剥ぎ取り、廃材を僕ら家に引き入れる。
 最初は母さんの真意が分からず、僕は言われるままに手を貸すだけだったが、母さんがあんまり楽しそうにやるものだから、途中からもっと積極的に作業に参加した。炊事場の湯沸かし器や洗面台についていた鏡を外して、母さんに掲げて見せると、母さんは、右手でOKのサインを送る。そして僕は、また獲物を探しに家の中を物色する。
 「浩二、これも構わんよね」
 母さんが、藤原さんの家の電気の傘を指差した。体に似合わず乙女チックだった藤原さんが、去年、駅前商店街の年末バーゲンで買った赤い照明器具は、夜になると表になまめかしい光を漏らしていた。風呂屋の帰り、藤原さんの家の窓を見るたび、僕はおかしくてたまらなかった。
 「これ、赤こうなるんやで、飲み屋のネオンみたいに」 「ええやないの。飲み屋でも風呂屋でも」
 母さんは喜々として電灯の傘をはずし、藤原さんの家は、まるで盗賊の闇討ちにでもあったように丸裸になった。
 翌日から、今度は僕らの家の修繕がはじまった。修繕と言っても、母さんと僕が手当たり次第に廃材を家に打ち付けるだけだから、釘は飛び出ているし寸法もあわない。それでも、家を直しているうちに、僕はこれからすごいことが起こりそうな気がしてわくわくしてきた。
 「ここに応接間を作るわよ」
 母さんは、藤原さんの家から持ってきた襖やガラス戸を戸口まわりにたて、それをテープで張り付けた。床は、駅ビルの焼却場で邪魔者扱いされていた発砲スチロールの板だ。いつの間にか、僕らの家は二Kになり、窓から一部屋張り出して三Kへと広がった。
 僕は、藤原さんの家に残されていた六色入りのマジックを使い、屋根裏部屋の窓にステンドグラスを作ることにした。教会の長細い窓にあるような、赤や黄色の色硝子の入った窓を想定し、頬のこけたキリストの絵を描いた。それを見た母さんは神妙に十字を切り、これからは屋根裏に上がるとき、いつもこうしなくちゃねと言う。
 僕らの作業を見付けた地主さんの代理人が、こんなことをされちゃ困ると言いに来た。けれど、僕らは、僕らの家を広げ続けた。作業をやめないと強行手段に出ますと内容証明郵便が来て、藤原さんの家の部分がはぎ取られたけれど、僕らはそこにも板を張り、とうとう家を五DKの豪邸にしつらえてしまったのである。周りには、もう何もないのだから、たやすいことだ。
 母さんは、用がなくても継ぎ接ぎの応接間に入り、広くなったダイニングでお茶を飲む。僕は、念入りにガラスに色をつけ、少しでも本物に似せようと頑張っていた。

        7

 十二月の雨が、静かに降っている。
 今日、僕たちはここを出ていく。母さんは、隣町の洋装店のお直し係に職を見つけ、店が借りてくれた一DKのアパートが、僕らの新しい住まいとなる。
 昨日、二学期の終業式を終えた僕は、冬休み明けから隣町の小学校へ通う。あと三か月ばかりなんだから、ここで卒業したら良いのにと、友達も先生も言ったけれど、僕は転校を決めた。僕は充分にここでの生活を楽しんだ。もうここに執着することはない。
 すっかり見晴らしの良くなった椿団地の中で、ぽつんと建つ継ぎ接ぎだらけの僕らの家は、滑稽なくらい不格好な姿だ。執拗な立ち退き作戦が進み、学校から帰ると一部屋潰されていたり、ブルトーザーが二台も家のまわりを徘徊したりしたけれど、ここまで追い立てられると、かえって肝がすわり、僕らはクリスマスの日に最後の晩餐をしてから越そうと話し合った。
 それを決めてからの一か月は、本当に楽しいことばかりだった。僕と母さんは、お互いに秘密の手紙を書いて瓶につめると、児童公園のタイサンボクの木の下に埋めた。何十年か先に、ここに戻ってくることがあれば、それを掘り出そうという計画だ。
 「浩二が恋人にうつつを抜かして、お母さんをほったらかしにしたら、すぐ堀り出しにくるわ」
 「そんなこと、ある訳ないやないか」
 「わからんわよ。今はチビやけど、浩二は男前なんやから、女の子の方がほっとかんわ」 
 「アホみたいなこというなよ」

 屋根裏の荷物をダンボールにまとめ、僕は、階下の母さんに声をかけた。
 「こっちは、済んだで」
 「下も終ったわ。お茶でも飲もか」
 わざと、どすどす音を立てながら階段をかけ降りると、僕は母さんにガオーと襲いかかった。母さんは、けらけら笑いながら「降参、降参」と言い、背中にかかった僕の手を握って「大きな手」と呟いた。
 「ほんまに大きいになったわね」
 母さんは、僕の腕をひっぱると、小猫をいたぶるように頭や肩をなでまわした。
 「やめろよ」
 僕が体をくねらせて逃げようとすると、母さんは、よけいあちこちを触り、「可愛い、可愛い、浩二君」と笑う。 「ああ、そうや。浩二、ここに立ってみ」
 母さんはテレビの横の柱に僕を押し付けると、頭の上にすとんと本を置き柱に線を引いた。何かあると母さんは僕をここに立たせ身長を計る。測定の日は、まるででたらめで、一年一年の成長の記録というよりも、記念碑という感じだ。
 三歳誕生日。五歳前歯が抜けた。入学式。秋季運動会一等賞。クリスマスの日に…。
 母さんの書いた、その時々の文字が、手垢で汚れた柱の中で光っていた。
 「こんなに、大きいになったんやね」
 僕が一歳と一ケ月一〇日で歩き始めたことを記念する最初の線から今日の線までを、母さんは懐かしげに指でなぞった。
 「母さんも、計ってやるよ」
 「いやよ。身長計られるの嫌いなんよ」
 「だめ、だめ」
 嫌がる母さんを柱の横に立たせ、僕は鉛筆で線を入れた。 「もう、いい。済んだ」
 母さんが、笑いながら聞いている。僕は、柱につけた鉛筆の傷を見ながら「うん」と言ったきり言葉が出なかった。どれどれと体を捩じって線を見た母さんは、「あっ」と声を上げ、それから僕を見た。
 「浩二の方が大きくなってたんやね」
 僕は、嬉しかった。たった、二センチばかりだったけれど、母さんよりも大きくなっていた自分が嬉しかった。
 母さんが、自分の線の横に「雪子、引っ越しの日に」といれ、僕の横には「浩二、旅立ちの日に」と書いた。
 「違うの…」
 「そうよ。違うのよ。私は、洋装店のアパートに引っ越すけど、浩二は椿団地から旅立つのよ。移動するところは同じでも、意味は全然違うわ」
 母さんの顔は、晴れ晴れとした笑顔だった。
 僕は、カーテンのはずれた窓から駅ビルを見た。相変わらず、どんより曇った空の下に、ビルは退屈そうに大きな体を横たえていた。
 案外つまんない奴だったんだー。
 引越し屋の車のクラクションが表で鳴った。